小説

『翳りゆく部屋』末永政和(『地獄変』芥川龍之介)

 夏の終わり頃から天候のすぐれない日が続き、私は戸外での制作を控えるようになっていた。室内で静物画を手がけたり、ビュラン夫人をモデルに絵を描く機会が多くなっていた。ビュラン夫人は気丈でたくましい女性だったが、夫に見捨てられた女性というその立場が、私の庇護欲をくすぐったのかもしれない。病床の妻と同じ屋根の下で、私はビュラン夫人に言い寄り、関係を重ねるようになっていた。情欲に溺れれば溺れるほど、妻の前で平静を保つのが難しくなっていった。妻の宝石を質に入れたとき、私は心のどこかで、妻が二度ともとに戻らぬことを願っていたのかもしれない。病床にいる限り、宝石など必要ないのだから。

 私は隣の部屋から画材を運び入れ、妻の死顔をカンヴァスに残そうとした。せめて彼女が生きた証を、デッサンという形で残そうと思ったのだ。自分の後ろ暗さを見とがめられることももうない。私は堂々と、彼女の顔を直視することができる。
 秋の陽は次第に傾いて、部屋に差し込む光も表情を変えていった。私はいつしか時間を忘れて絵筆を走らせていた。冷たくなっていく妻の姿を、影を濃くしていく妻の顔を、私は取り憑かれたように、機械的に写し取っていた。妻の顔は白くなり、やがて紫や青を帯びていった。死によって光が、色彩が変化していくことを私は知った。その衝撃が、私から最後の理性を奪い去ったのだった。
 私は夢中で絵筆を動かし続けた。何という業だろうか。画家とは何と罪深い存在なのだろうか。大切な者を失ってさえ、私はそれを糧にしようとしている。悲しみに暮れるどころか、私は揚々と妻の死顔を描き続けている。私の眼前にはもはや妻の顔も、思い出もありはしなかった。ただただ美しく移ろう光のありようが、死が織り成す色彩の変化が、限りなく私の心を悦ばせていた。
 図らずもその色彩は、妻が愛おしんだ雪景色に似ていた。所在なくたたずむ黒い小鳥は、私自身だったのかもしれない。光に憧れながら飛び立つこともできず、真っ黒な影を身にまとっている。やがて光が雪を溶かせば、ぬかるんだ泥土が姿をあらわすのだろう。それは私が妻に見せずにいた本性に相違ない。
 死の床の妻を彩る、雪のような色彩もまた、真実を覆い隠す白であったのかもしれない。妻が表に出さなかった悲しみを、当惑を、羨望を、怒りを、私はそのまま葬り去りたかった……。

 
 画家の手記はここで終わっている。彼はその後も光を描き続けたが、このときを境に人物画を描くことはなくなった。時折風景画の中にあらわれる女性像は、皆一様に表情がなく、風景と同化しているようにさえ思える。唯一の例外は、妻の死から15年後に描かれた、絶筆となった自画像であった。死の床で朦朧となりながら、彼は自身がやがて迎えるであろう死の表情を描こうとしたのである。

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