小説

『ビーフジャーキーと猫』広都悠里(『七匹の子ヤギ』)

 おかあさんだ。
 シノちゃんはおかあさんじゃない。
「猫が」
「猫? 猫なんて別に珍しくないじゃない」
 このけだるげな、すべてが面倒臭いというような言い方、絶対にそうだ。覚えていないと思っていたのに、忘れかけていた破片が舞い戻ってぴしりぴしりとつながるように過去を埋めていく。
 暗い部屋、近づいてくるヒールの音、こっそり見ていた後ろ姿、振り上げられる白い手のひら、固い足の感触、一瞬で蘇って動けなくなった。
「シノちゃん、餌なんかやっちゃダメよ」
 その足音はヒールではなかったけれど、近づいてくる足音にあたしは小さかったあのころと同じ気持ちになっていた。
 おかあさんだ! うれしいようなこわいような、待っていたような待っていなかったような、ぐちゃぐちゃした気持ちで、だから玄関に走りで出て飛びつくこともできなくて、中途半端にぼんやり立っていたら「気味悪い」「可愛げのない子」と玄関のドアが開いた瞬間から言われてそれで。
「ここにいてもいいことなんかないよ。お帰り」
 はっと見上げた。そこそこきれいだけど、疲れた顔のおばさんがあたしを見ていた。
 おばさん。
 なつかしさも恨みもなく、ただのおばさんにしか見えなかった。
「行きなさい」
 あたしは立ちあがる。
 猫になっても一緒だった。
 優しい言葉もかけてもらえないし、撫でてくれることもないのだ。
 すたたたた、走ってぴょいと近くの塀の上にあがる。振り返ってもう一度見る。
「かわいい猫ちゃんだったのに」
「その時だけ、可愛がってどうするのよ。ちゃんと面倒を見る気がないなら中途半端に手を出したらダメよ」
 はっとしておかあさんを見る。
 おかあさん。

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