「なんだ、知らねえのかよ。あの小百合は織物業で羽振りの良かった親父さんが死んで家業も傾いて、泣く泣く上の学校をあきらめて駅前の髪結い店に勤めたんだよ。可愛そうに小百合が最初に勤めたその店は近頃悪名高い性悪企業。残業は多いし休みはくれないし、それに店長の従業員への対応も酷いものだったようで、それで小百合は早々に逃げ帰って、その後しばらくは引きこもっていたらしいんだが、今は隣町に出来たばかりの大衆割烹に出ているんだ。たまには顔を見かけたけど、今も働いているはずだよ」と伊助はかなり詳しい。
庄三は飛び切り可愛く成績も良かった小百合ちゃんの不幸を始めて聞かされて、何も知らずにいた自分が情けなかった。
その晩はいつになく盛り上がって、しこたま酒を飲んでお互い上機嫌で引き上げたのだが、例の『風で桶屋が儲かる話』の後編を作る目的はすっかり忘れられ、後に残ったのは可愛かった小百合ちゃんの笑顔だけだった。
そう、クラスのアイドルだった小百合ちゃんは勉強もできて上品でみんなに好かれていた。確か小学校のとき小百合ちゃんがその頃の学校のスローガンを全校生徒の前で発表したことがあった・・『早寝早起き朝ごはん!』・・確かそんな文句だったと思うが、そのときの元気で清らかな声はいつまでも庄三の耳に残っていた。その晩、庄三はいつか隣町にいるという小百合ちゃんに会いに行こう・・と、心に決めたのだった。
次の日も風は強く、疫病が蔓延してきたとの役場からのおふれが出た。やっぱり大風で人が目をやられて猫が三味線の皮になって、鼠がのさばって疫病が流行っているのかもしれない。ご隠居の講釈がにわかに真実味を帯びてきた。
こうなると庄三の店にも注文が殺到、暇なときに作り貯めておいた在庫も底をついて、手を休める暇も無くなった。あまりの忙しさに『猫の手借ります』の張り紙でも出したら・・とか女房も嬉しい悲鳴。女房は名前をお美代といって庄三とは家も近所の幼馴染。器量も気立ても良くてどうして庄三の所なんかに来たんだか・・・と、よく本人が言っている。
「バカ野郎! 猫はとっくに三味線の皮になっちまったよ。それに、借りてきた猫なんざおとなしすぎて使い物にならねえよ!」と、庄三の声も威勢が良い。やっぱり商売というものは忙しくなくてはいけない。昔から『稼ぐに追いつく貧乏無し』と言うが、こんな風に忙しく働いていれば、遊ぶ暇など無いのだし金が貯まるのが道理というものである。
そんな忙しい日が続いて月の売上は開業以来の最高記録。作業場の壁にはお美代が作った売上本数の棒グラフが、今までにない見事な右肩上がりを示していた。
しばらくそんなあわただしい日が続いたが、ようやく風がおさまった。
「さて、今日は仕事も切りがついたし、隣町の小百合ちゃんを訪ねてみようか」先日のこともあり向かいの伊助を誘おうかとも思ったが、伊助の女房は抜群に勘が鋭い。伊助に抜け駆けするようで多少の後ろめたさはあったが庄三は一人で行くことした。女房には最近できた遊技場に行くと嘘を言い、少しばかり余分に小遣いを握って昼過ぎに家を出た。