一瞬の間に私の脳に訪れた記憶は、私をいくらか落ち着かせた。そしてそのような想い出と一緒に、私は、何の根拠もなかったが、きっと母は今頃洗濯物を干しているのだろう、と考えた。そして朝の太陽の光が当たる庭で、物干し竿に沢山の洗濯物を干し、それをパンパンと手ではたいている母の姿を想像した。洗濯物の香り、そして風になびく洋服を想像した。その母の姿は、今、私のすぐ斜め後ろで、相田くんに文字を教えている先生の気配と重なった。先生は相田くんより先に、少しずつ区切った文章を読んで聞かせていた。そして相田くんはそのあとに続いた。先生と相田くんの輪唱が、教室中に響いた。先生がゆっくりと、そしてはっきりとした調子で一区切り読む。すると、相田くんもそれを追いかけるようにして、手に持った教科書に書かれた文字を声に出した。相田くんの朗読は、辿々しく、所々でつっかえた。それでも相田くんの声は、はじめの、あの心細そうな声とはうってかわって楽しそうだった。それは、いつもの元気一杯な相田くんの声よりもなお、生き生きとしていた。私は思わず後ろを振り返った。相田くんの瞳はきらきらと光を帯びて、輝いていた。その時、ふと私は相田くんの家は共働きだったのだということを思い出した。そしてはっとした。相田くんのお母さんはいつも働きに出ていて、あまり家に居ないのだという噂をクラスメイトから聞くともなしに聞いていたのだ。そういえば授業参観の時、相田くんのお母さんを見たことがある。優しそうな人だった。髪をひっつめに結って、化粧が薄く、よく笑う人だった。私は思った。きっと、相田くんのお母さんは、今頃相田くんや家族のために働いているのだろう。一生懸命、汗を流して。先生の声は、はじめの、どうしたの、と言った時よりも優しかった。相田くんの朗読は、私の心を強く打った。それは、進んでは戻り、戻っては進む、美しい波のような朗読だった。私は、私の中で何かが本質的に変わっていくのを感じた。そして、先生に叱られるかもしれないと恐れることすら忘れて、心を奪われるようにして二人の様子に魅入っていた。おそらくクラスメイトたち皆が、じっと静かに黙って、先生と相田くんを見つめていたと思う。誰の瞳にも、相田くんの瞳と同じように、小さな明かりが灯っていた。それはほんの少しの間のことだったけれど、とても長い時間に感じられた。暖かい春の風が優しく頬にあたった。窓から射し込む、朝のうららかな陽光の中で、ふたりの、生き生きと、嬉しそうな声が、私たちを包んだ。