「相田くん、どうしたの」
先生が尋ねても、相田くんはもじもじとして喋らない。相田くんは、読むのをやめたのではなかった。字が読めなくて、詰まったのだ。
「どうしたの、読めるでしょう、習ったはずです」
それでも相田くんはその文字を読めず、ただただ突っ立っていた。私は視線を教科書へやっていたのでその時の様子を見ていたわけではないが、恐らく彼は顔を真っ赤にして俯いていたのだろう、呻くような、言葉にならないおどおどした呟きが、私の後ろから聞こえてきた。先生は、私のすぐ横を通って相田くんの側へ寄って、
「この字はね、○と読むんです」
と教えた。
皆が相田くんの方を見た。私は怖くて振り返ることができなかった。だが、それでもじっと注意して、相田くんと先生の様子を背中で伺っていた。相田くんは泣いているかもしれない、そう思った。
私のすぐ斜め後ろに居る先生の洋服からは、母と同じ匂いがした。背後に立ちはだかった事態に怯えながら、私はふと、母は今頃何をしているだろう、と考えた。すると、ふいに他のことがらが脳裏をよぎった。突如、私が文字と文章に恐らく始めて触れた日のことを思い出したのだった。
母は、幼い私に様々な絵本を読み聞かせるのが好きで、夜、寝る前になると、いつも分厚い昔話が沢山のった絵本を出してきては、それを枕の上に置いて、私と妹に読み聞かせてくれた。パラパラと、所々に絵がついたページを繰りながら、優しい声で、
「今日はどの話がいい?」
と、いつも訊いてくれるのが嬉しかった。その絵本には、とんち話から恐ろしい話、悲しい話、愉快な話まで、様々な昔話がジャンルごとに分かれて載せてあった。どの話も、母の柔らかい声に包まれるようにして私の耳に届いた。私は恐ろしい話を好んだ。妹は愉快な話を好んだ。母は、私たち姉妹に絵本を読み聞かせることが母自身にとっても喜びであるかのように、楽しそうに文字を音に乗せていた。そうして読みながら、時々私たちの意見に耳を傾け、自分も子どもであるかのように無邪気に笑った。私と妹は、それぞれに好みの話を読み聞かせて貰ううちに、いつの間にか眠りに就いていたものだった。それは、甘い、喜びの記憶だった。文字を通して、母と妹と過ごし、分かち合う時間。その中で、私は文字に触れる喜びを知った。