と、そうこうするうちに自分の番が来た。椅子を引いて、立ち上がる。一秒一秒が長く感じられる。私はちらっと先生を盗み見た。先生は何事もない風で、澄ました顔で教科書に目を落としている。もし、私がここで教科書を読み上げなかったり、その場にそぐわないことをしたりすれば、その目は訝しげにこちらを見るだろう。非難の色を以て。幼い私は、このような時だけは先生を無情だと思った。普段は優しくて朗らかな先生が、授業中は時々鬼教官のようにすら見えた。読み上げるタイミングだって自分で図らなければならない。いつ読みはじめるか、それ一つ心の中で決めるのにだって勇気が要るのだ。ー突然、私は水の中に一人放り投げられたような錯覚に落ち込む。有無を言わさず、ぽおんと勢いよく投げ落とされた私は、飛沫を上げて水面と衝突し、そのままずぶずぶと沈んでいく。早く呼吸がしたくて、水面から顔を出そうと必死でもがくが、大袈裟に動かす腕はむなしく水を切る。ー周囲を見れば、他の生徒たちは大人しく教科書を見つめている。私の恐怖など、皆誰も知らないかのようだ。
当時、私はクラスの内ではちょっとした優等生で通っていた。別にそれほど頭が良い訳ではなかったのだが、このように臆病なので失敗をひどく嫌い、授業中、当てられると頑張って利口らしく振る舞った。叱られるのが嫌で、宿題も忘れなかった。休み時間中や給食中などは、できるだけ先生や皆に好かれるよう気を配った。そうして、場数を踏まない内にいつの間にか私の失敗に対する恐怖は膨らんでいき、仕舞いには、私は一人でそれを抱える羽目になってしまっていた。
はじめが一番の恐怖なのだ。私は、ごくんと生唾を飲み込み、口を開いた。そして、できるだけそつなく、できるだけ優等生らしく、教科書の上の文字を読むようにした。口から滑り出した言葉は、穏やかな抑揚を持って、教室に拡がった。読み間違えることはなかった。私はいつの間にか自分の番を終えて、椅子に座っていた。そして、順番は私の後ろの男の子へと移った。私はほっとしていた。そして、自分で思っていたよりも上手く読むことができたという、密やかな満足感に包まれていた。
と、ひとつの調和が乱れた。教室の空気が変わった。後ろの席の男の子は、名前を相田くんと言ったが、その相田くんが、急に朗読をやめたのだった。教室に静寂が訪れる。皆が相田くんの方を見る。先生が、教科書から目を上げた。上目使いで、老眼鏡の隙間から、相田くんの顔を見た。臆病な私が恐れていた負の想像が、突然主役を別の人間に据えて、現実となったのだ。目の前で繰り広げられていたのは、まさに最悪の事態だった。