「すみません」
咄嗟に、彼女は謝った。仕事だからとか、礼儀として謝っているというよりも、本当に申し訳ないと思ったからつい口を出た、という感じの謝り方だった。その心からの声に、思わず私は彼女の方を見て微笑んだ。気にしなくても大丈夫だから、という意味を込めて。少々ぎこちなくではあったが、さっきまで自分が怒っていたことが悟られないよう、できるだけ穏やかな表情を意識した。その時、私と彼女の目が合った。彼女は少し恥ずかしそうに笑って、真っ直ぐな瞳で真正面から私を見据え、ペコリと体を腰から折って、一礼をして去っていった。彼女の笑顔と心のこもったその辞儀からは、瑞々しい魅力と、自然な生彩とが溢れ出していた。私は、彼女が厨房に戻っていくのを見届けてから、珈琲にミルクを入れた。スプーンでかき混ぜると、白いミルクはゆっくりと渦を描いて混ざっていった。そして珈琲を一口、口に含んだ。たちまち芳醇な香りが口の中いっぱいに広がり、ミルクの柔らかい甘さと珈琲の深みのある苦さが優しく溶け合う。私は、ほっと一息ついた。先程の怒りなどはもう忘れていた。私はもう一度、ウエイトレスの女の子を見やった。彼女のお陰だった。彼女は、私が怒りによって自分の目の前に引いていた一本の線を、感じの良い、正直な真心で軽々と越えてくれたのだった。彼女は相変わらず真剣な表情で、しかし微笑みを絶やさずに仕事をこなしていた。その額からは、汗の雫が数滴滲んでいる。働いている彼女の瞳には、何故だかきらりと輝くものがあった。するとその時、何か淡い記憶のようなものが、一瞬間、脳裏を通り過ぎた。それは突然、なんの前触れもなしに私の脳を包み込み、そして消えていった。私はすぐにそれを思いだそうとした。その感覚が一体いつ、どこの、どんな体験を元にした記憶なのか、確かめたくなったのだ。私は、どうにかその感覚を呼び戻そうと努めてみた。ふわっとした、曖昧な、それでいて具体的な内容を含んだ…そうするうちに、不思議なことに、先程の一瞬の記憶が再び蘇ってきた。それは声だった。誰かの声が、私の脳裏に聞こえてきたのだ。幼い声だった。私の声だか、他の子の声だか、区別がつかない。