小説

『桜花舞い踊る卯月、僕ラハ涅槃ニテ酩酊ス』灰色さん(『桜の樹の下には』梶井基次郎)

 そして、「春の太陽が眩しいから」そんな狂気じみた理由で路上を奔る黒猫が咥える、強ばった桜餅の色素が秋刀魚へと変わり、歩道で一心不乱に桜のデッサンに耽るルンペンの青年は可憐な少女に代わる。そう例えば物憂げなシャンソンの様に、刹那の早さの時間でFade Outしてゆく春の儚さと輪廻。
桜吹雪の中で宴に酔いしれる腐乱死体と鬼女の裸体は、靴下とスニーカーを履くことすら、地上60階から飛び降り自殺をする気力すら失せる熱風と焦熱が押し寄せる季節まで、いつまでも其処で「春霞」とSpirytusを。
 ところで、あまりにも光が眩しい四月×日、私がベビーカーの中でボンヤリと眺める世界は何処までもどこまでも桜並木が拡がっていた。骨ばった枝としとやかな花弁の隙間から覗くまっさらな空を浮遊する七色の風船の群れと無機質な硝煙も、0.9秒の瞬く間に何千人もの命を奪う、あの飛行機雲の寝ぼけた曲線も、僕には全て悪い夢の続きの様に思えた。
 そう、これは夢なんだ!見ろ、三輪車の黄色帽が爆炎に包まれ、悲鳴と呻きすら掻き消されても、舞い踊る薄紫の花弁はその色彩を喪っていない!
澄みきった君の白いセーラー服が黒い蝙蝠傘で両断され、臓器や赤黒い血液が大雑把に醜く露出しても、その無垢な体に纏わりついた桜の群れの優しげな淡紅はその色彩を保っている!
 僕の心の叫びが、否乾いた唇から若しかしたら発せられてしまったのかもしれない。誰もいなかったはずの僕の周囲で一様に白目を剥き、涎を垂らしながら桜の魔力に魅せられていた、何時かの少女達が視線を正面に戻し、取り憑かれた様態で僕を凝視するのであった。
 君とは異なる、直立した少女達の桃色の唇と柔らかな肌は、何処か咲き誇る桜に似ていて、彼女達の白く濁った眼球と無軌道に垂れ流され続ける涎の不気味さと僕の罪をほんの一瞬だけ忘れることが出来た。
――廃墟と有刺鉄線、打ち棄てられた教会の鳥籠、忘れられた車椅子と手紙。全ての事物の移ろう過去の記憶と不確定な未来を祝うかのように、そして酩酊したかのように桜吹雪が舞い踊る。
 明日も生きられるだろうか?
いつかの春の終わりに、雨後の地面に醜くへばり付く、茶色く変色した花弁のように消え去っていった君に問いかける。その返事などあるはずもなく、永延に続く桜並木が酔い咲く白昼の穏やかさと狂気、そして美しさと孤独を目の当たりにし、僕は麦酒を開けることしか出来なかった。

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