「髪も髭も生やしっぱなしでね、こう言っちゃなんだけどホームレスが入ってきたと思ったよ。けど、店の人は『いらっしゃい』なんて普通に話しかけてる。ああ、常連の漁師さんなのかなと思ってたら、どこかで見たことある奴なんだよ。俺はそいつがビールを注文した時の声を聞いて、思わずかけよったんだ」
女はコーヒーを口に含んだ。
「俺のこと覚えているか?って聞いたら『うん』って言うんだ。あいつなんだよ、失踪したあんたの旦那なんだよ。俺は思わず大声あげて、その汚い身体に抱きついたんだよ」
女は静かにうなずいている。
「うちらは同期入社でね。俺は政治部、あいつは社会部で特ダネを連発した非常に優秀な記者だったんだ。協会賞をもらったこともある。だから記者を辞めて作家になるって言いだした時はビックリしたよ。何も辞めることはないんじゃないか?新聞記者を続けながら作家になった人だっているんだから、一本立ちするまで続けたらいいじゃないか?そう言ったんだが聞こうともしなかった」
「一度言いだすときかない人でしたから」と女はようやく口を開いた。
「自分を追い込まなきゃ書けないだなんてカッコ良いこといって、けっきょくは自分の家族を追いこんだだけだったな。そりゃね、俺だって新聞記者以外にやりたいことがないわけじゃないよ。けど実際問題それはできないじゃない。子供3人を大学に通わせることを考えたら、今の部長という役職があっても不安で仕方ない。そりゃ作家として成功して印税生活なんてしてみたいよ。でも現実はそうはうまくいかない。現に奥さんは狭いアパートに移って慎ましやかに暮らしてるっていうじゃない」
「誰から聞いたんですか」と女は少し微笑みながら言った。
女のその声を聞いた男はさらに饒舌になって話を続けた。