男は職業訓練校に通うために、日中はほぼ家を空けていました。千鶴はその間に機織りの作業を進め、男が帰宅してからは、男が寝静まった後で、織物の仕上げにとりかかりました。
ある日、千鶴は帰宅した男の体から、たばこの匂いがすることに気が付きました。
「訓練校の喫煙所が屋外にあって、近くを通ったときに、たばこの煙が服についちゃったんだと思う」
千鶴が男を責めるわけがありませんでした。
また別のある日、男は家に帰らず、翌朝、酒の匂いをぷんぷん漂わせて帰ってきました。
「偶然、町で高校時代の友達に会って、無理やり飲みに連れて行かれたんだ。連絡しようと思ったんだけど、おれも千鶴さんも、携帯を持っていないから……」
千鶴はすぐに携帯を二台契約するよう、男に言いつけました。月額料金の出費が痛いですが、心配で眠れぬ夜を過ごすよりはよっぽどマシです。
これまた別のある日、反物を売りに行った男は、一文無しで家に帰ってきました。
「呉服屋を出たところでひったくりにあって……抵抗したんだけど、ナイフで脅されて……どうしようもなかったんだ」
千鶴は男の手を取り、そのぬくもりを確かめて安堵しました。反物の代金がなんでしょう。千鶴は、男さえ無事ならそれで良かったのです。
同棲開始から一ヶ月後、大きな転機が訪れました。
その日も男はタバコと酒の匂いを漂わせて帰ってきました。「反物の代金は全額、難病で苦しむ海外の子どもたちへの募金に使った」という男の言葉を、千鶴は鵜呑みにしました。
男は前置きもなく言いました。
「この小屋の大家に、おれと千鶴が同棲してることがバレた」
同棲を始めたての頃、男はこう話していました。この小屋は一人で使うことを条件に貸してもらっている、と。
「大家は、同居人に出て行ってもらうか、二人で引っ越すか、どっちかにしろって言ってる」
別のアパートに引っ越すお金など、捻出できるはずがありません。
……やっぱり、出て行けって言われるのかしら。
千鶴の目にうっすらと涙の膜が張ります。
果たして千鶴を襲ったのは、生まれて初めての口づけでした。
「おれは千鶴と離れたくない。好きだ、千鶴」
千鶴の白皙の頬が、見る間に淡いピンクに色づいていきます。