鶴子の叫びで、千鶴はわれに帰りました。鶴子は最初から、自分を犠牲にするつもりだったのです。男の手に猟銃がある以上、誰かが男の身動きを封じなければ、逃げることは叶いません。
「クエッ、クエエッ!」
――千鶴、はやく!
鶴子の覚悟に応えるために、いま、自分がしなければならないことはなにか。千鶴は嗚咽をこらえ、助走をつけて羽ばたきました。地上を離れる寸前に振り返った彼女が見たのは、男に振り払われた鶴子が、地面を転がるところでした。
「このクソ鶴があぁァ!」
男は右手で眼球を失った眼窩を押さえながら、左手で猟銃を構えました。銃口を向けられた鶴子はぐったりとしたまま、動きません。
……ごめん、鶴子……本当にごめん……!
千鶴が気流に乗り、廃材置き場から離脱するのと同時に、あの恐ろしい轟音が、後ろから響いてきました。
数年後。
一羽の美しい鶴が、冬の空を飛んでいます。
ほっそりとした足、処女雪のような羽毛、鋭くも愛嬌のあるくちばし。年齢は八歳、人間で言えば二十代半ばの成熟したメス鶴です。
彼女の傍らには、二羽の鶴が飛んでいました。
一羽は成熟したオス鶴。器量は月並み、かつて彼女が思い描いていた理想のオス鶴には遠く及びませんが、彼は、彼女の心の傷を、時間をかけて癒やしてくれました。やがて、彼女に新たな命が宿りました。それが、いま彼女と彼の間で、一生懸命に羽を動かしている小さな鶴です。
彼女は幸せでした。けれど時折、なにかの拍子に、数年前の記憶が蘇ることがあります。人間の男に身も心も捧げ、裏切られ、親友を失った、辛い記憶……。
あの後、親友がどうなったのか彼女は知りません。しかし、ある日、捨てられていた新聞の片隅に、こんな記事が載っていました。
『株式会社リース・クレインの元社長、自殺未遂』
記事に目を通すと、元社長は従業員の失踪による商品の出荷停止、事業健全性への疑惑から、民事再生法の適用外となり、債務整理に追われた挙句にマンション屋上から身を投げ、一命をとりとめたものの、植物状態に――と書かれていました。