小説

『鳥も鳴いてたろ』よねじまけんと(今昔物語集『信濃守藤原陳忠が御坂峠に落ちること』)

 汝羅の婚礼の儀がとりおこなわれた時、下人は再び彼女と相対した。汝羅はおしろいを顔につけ、口には紅を塗り、白い着物に身を包んでいた。下人はただただ美しいと思って眺めていると、汝羅は彼の方を向きうっすらと笑みを浮かべた。彼はその笑みを見たとき、ひたすらに泣きたくなったそして自分の無力を心から嘆いたのだった。
 今になって下人にはあの時の汝らの笑みが鮮明に蘇ってきた。あの時彼女は何を伝えたかったんだろうか、もっと素直になれていたら違う結果になったのだろうか、彼女は今幸せなのだろうか、自分の方が彼女を大切にできるのではないだろうか。様々な?が湧き上がってくる。
 下人は頭を地面にたたきつけた。そんな身勝手な理由で長年辛苦を共にしてきた君主を裏切っていいはずがない、自分を救ってくれたのは紛れもない守殿 なのだ。そして彼は頭首として優れたお方なのだ。自分なんかでは測りきれない聡明なお方なのだ。殺していいわけがない。
 下人は決心すると縄をしっかりと握り籠を谷底へと落した。『見捨ててしまえ』   
『見捨ててしまえ』どこからともなくささやく声が峠にこだまする。下人はそれを振り払いながら籠を下していった。
 しばらくすると、「上げろ」という守の声がするので、縄をたぐり寄せるとやけに軽い。おや?と思ってそのまま引き上げると籠にはいっぱいの平茸が入っていた。 
 まったくこの人物の心は何とも常識はずれの不気味さをはらんでいる。あんな危ない目にあったにもかかわらず、すこしの動揺の色もみせず呑気に平茸をとっていたのである。「しっかりしたおかただ」下人は皮肉交じりの微笑を浮かべた。この異常なまでのがめつさで在任中、とれるものは手当たり次第に取り込んでいたのだろう。 
 ふと右の頬に痛みを覚え、下人は手を当てた。信濃の国を出る際、童に石をぶつけられたのだ。その時はただ無礼なガキだと気にも留めなかったのだが、今思えばあの童も守殿の厳しい取り立ての前に苦しい思いをしたのかもしれない。下人の心に童に対する激しい同情の念が強烈に湧き起ってきた。それと同時に激しい憎悪が生まれるのを感じた。

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