その時である。不意に突風が峠を走りまるでそれにつられたかのように下人の心にふと得体のしれぬ黒い闇が覆いかぶさった。それは確かに、一瞬でも見て見ぬふりをしていれば、気づかぬふりをしていればすぐにでも通り過ぎてゆくものだったであろう。しかし、どういうわけかその時の下人はそれをしなかった。
「このままおいてってしまおうか」心の中で呟いて、下人は今自分がとんでもない恐ろしい考えを抱いたことに仰天した。しかし、すぐに否定はしなかった。それは先日、守がこの下人のことを使えないやつだとある奉公人にこぼしていたのを思い出したからだ。下人は以前から自分が一番古参の部下だったこともあり、どこかで守のことを一番理解しているのは自分だという自負を持っていた。ゆえに守殿も自分を一番信頼してくれているのだろうという期待もあった。しかしそんな下人の虚栄心はこの出来事で見事に打ち砕かれた。当然ショックも受けたし、恨みも覚えた。
「しかし」と下人は大きく首を横に振った。それは守殿が悪いわけではない、ふがいのない働きしかできず失望させてしまった自分が悪いのだ。守殿は、守殿は立派なお方なのだ。
ただ女癖が悪いだけで…
「女癖」とつぶやいて、下人はまたある出来事を思い出した。
下人はこの年になるまで、彼の人間的な不器用さが邪魔をしてついに一人の妻も持つことがなかった。しかしそんな彼が一度だけ女というものに興味を持ったことがあった。その女というのは汝羅という村の娘で、きれいな容姿にかわいらしい声をしており下人は一目で惹かれてしまった。気が付けばいつもどこかに汝羅の姿をさがしていた。一度だけ彼女を夜桜見物に誘ったことがあった。二人はただ黙って柔らかな日差しの中、咲き乱れる桜の下で並んで歩いた。たったそれだけなのに下人はただもう幸せで、もどかしくて、切なくて、頭がガンガンした。しかし運命の非情さは彼のことを見逃してくれはしなかった。
ある日守は何事でもないようにさらっと言った。
「私は汝羅を妻にすることに決めたぞ」
「・・・さようですか」
下人はただこうつぶやくだけであった。