ある晴れた日のことである。御坂峠にはうっすらとした霧がかかっており、道の辺に咲く白菊に降りた朝露がときおり差し込む日の光に反射して妖美な雰囲気に包まれていた
その峠に二人の男がやってきた。一人は信濃守陳忠という人物で、任国に下って国を治め、任期が終わって上京している途中であり、もう一人はその下人である。二人とも年は30~40といったところで、若いころからの付き合いということもあり、守はこの下人をすこぶる信用していたし、下人も守を信用していた。
下人はふと守を仰ぎ見た。男の目から見ても守は美しい容姿をしておられると下人は思った。パッとした顔立ちに、がっしりとした屈強な体を持っており、頭もよく切れる。多少女癖が悪いところはあるにせよ頭首としては申し分のないお方だ。
これと言って目立った才もなく、ぶらぶらとさまよっていたところを召し抱えていただいたおかげで今の自分があるのだ。いろいろあったが、やはり自分はこのお方に出会えてよかったと下人は心の中で深く感謝の意を述べた。
さて、二人が谷にかけられた桟道を渡っているときである。あろうことか守の乗った馬が端の木を後足で踏み負ったかと思うと、「あっ」という叫び声とともに神は谷底にまっさかさまに落ちていった。
下人はすぐに谷底を覗いたが、暗澹とした暗闇が広がるばかりでどれほどの深さがあるのかもしれない。
なんということだ、下人は頭を抱えた。すっと全身の血の気が引いていくのが分かった。辛い時も、苦しい時もいつもおそばに使え長さえ申し上げていたお方が、今この瞬間亡き者になってしまったのだ。人の命とはなんとはかないものかと下人は嘆いた。黒々とした泥が心の中に流れ込んでくる。絶望の中に落とされた、と下人は感じた。しかしその絶望の中に、深く黒ずんだ心の中に一瞬の随行が姿を見せていたことに下人は気づかなかった。
しばらく沈黙が辺りを包んでいたが、やがて下人は力なく立ち上がると先を歩き始めた。すると、誰かの叫ぶ声が下人の耳に響いてきた。まさかっと思って耳を済ませるとはるかの谷底から守の声がはっきりと聞こえる。
「守殿は生きておいでだ」光明が差し込んでくるのを覚えた。注意してその声に耳をすませると「籠に縄を長くつけておろせ」ということだ。下人は急ぎ籠の中を空にし、縄をくくりつけようとした。