小説

『約7000羽』大前粟生(『ヨリンデとヨリンゲル(グリム童話) 』)

 

 森はもう、男にうんざりしていた。人びとを迷わせるのが森の役割だと、昔から決まっているのだが、迷わせるのには体力がいる。男ひとりのために、木々を動かし、土を動かすのは、どうも割に合わないのだ。私は嘴で森をつついて、勇気づける。男を逃がしてはいけない。この男が妻にした仕打ちを考えるならば、男を生かして帰すわけにはいかない。森はなにも答えない。風が吹いて、木々を揺らしさえしない。風が吹かないのは、主に私のためだ。日光が入ってくれば、夜行性の私はたちまちのうちにだるくなってしまうだろう。だが、そのうち森は男を逃がしてしまうだろう。森も疲れてきたし、私もそろそろ戻らなければならない。言葉を発しないといけず、それはこの体では難しい。その前にせめて、懲らしめておこうと思って、男の進む先の地面に突如として蔓の輪っかを配置する。男はつまづいて、こける。男の顔には土がほろほろとつき、土のなかには虫の種や微生物がたくさんいる。男の手が土を拭うと、大部分がまた森に帰り、一部は手の溝に染みる。茶色くなった指先の指紋は木の年輪に似ている。私は空を滑り、男の側を通る。その拍子に、男の髪の毛を抜く。数本ではない。束で抜く。男の頭皮に爪を走らせる。流れはしないが、幅の開いた三本の爪痕に血が滲み出す。しばらくの間、男の頭が出すフケは赤く、タカラダニを思わせるだろう。それから、丈夫な若い枝をしならせて男の顔を打つ。唇が切れて、その横にミミズ腫れの線が走る。男はその部分だけ、髭を剃れないことになる。私はもうそろそろ、体に帰らなければいけない。もっと、男を痛めつけてやりたい。だが、今までいつも、男を途中で逃がしてしまった。約7000人の男を。それは仕方のないことだ。優先すべきは男ではない。男を痛めつけるのは、私がそうしたいからだ。私のエゴだ。本当に彼女たちのためになるのは、彼女たちを慰めることだ。そのために、私は言葉を出さなければいけない。
 家に着く寸前に空から森を見ると、男が外の道路に一歩を踏み出したところだった。森から解放された男はくずおれ、男は女がいなくなったことを思い出し、泣いた。

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