小説

『約7000羽』大前粟生(『ヨリンデとヨリンゲル(グリム童話) 』)

 男は夢を見た。彼女と自分に関する夢だったが、男は思い出そうとしなかった。思い出そうとしないうちに、夢は忘れられた。忘れてはじめて、男は夢を思い出そうとしたが、もう無理だった。まぁ、いいか、と男は思った。いつか思い出すだろう。記憶が、体が覚えているだろう、と思った。いつかとは、いつだろう。いつかはいつくるのだろう。忘れられた夢は思い出されるのだろうか。その保障はどこにもない。男の体は温かかった。木々の隙間から陽が射し込んでいて、横たわる彼の目の前で、光が小さな円になっていた。円のなかで露に濡れる雑草は、少しだけ先の未来で、男に踏まれるのかもしれない。踏まれないのかもしれない。男は雑草のことなど、自分の体が立つ地面のことなど、光のことなど風のことなど、少しも気にならないかもしれない。だが、私は見ている。私はそれらを気にしている。木々の皮の奥で虫たちがのたくる音を、皮をめくったときにある、内部と皮の間に挟まれた虫があがいて刻んだ模様を、森が動く音を、見ている。目を男に戻すと、男は二度目の眠りに落ちていた。
 男が再び目を覚ましたときには、光の輪はもう男の見えないところに消えていた。だが、それを男はなんとも思わない。横たわった体を起こし、小さく座った。尻をついていたが、暗い森の土は湿っていて冷たいので、男は正座に切り替え、太ももを這っていたシロアリを潰した。男はまた夢を見たが、今度は夢を見たことさえ覚えていない。赤い花の夢だった。花の真ん中には大きな真珠があった。男は山を越え、谷を越え、また山を越えた果てで、その花を手に入れる。そして、息せき切ってこの森にやってくることになる。その花がそこにあるとき、この森の迷路は解かれる。男には家が城のように見える。実際、時代が時代なら、城と呼べてしまえそうなほど大きな家だ。閉ざされた大門は、花の握手で開かれる。ザクロが繁る中庭を走り抜け、男は部屋にたどり着く。だが、男はその夢を覚えていない。

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