小説

『天女雲』小林睦美(『天女の羽衣』)

「ふふっ。自転車に乗れなくて、私かなり困ってたんですけど。朝は毎日歩かないといけないし。でも、いい運動になったかな。それに…。ねえ、亮介君、もし亮介君の自転車の鍵がなくなったらどうする?」
「えっ?」
「普通、鍵を壊すとか、他の自転車に乗るとか、だよね?」
 確かにそうだ。実際、小学生のとき、鍵をなくしたときは、自転車屋さんにお願いして大きいペンチみたいなもので鍵を切ってもらった。
 重ねられた結衣の手に力がこもった。
「私も亮介君と一緒にいたいよ。だから大丈夫だよ。」
 思いがけない言葉に僕は固まってしまった。結衣の手が触れている部分がじんじんと熱くなった。
「聞いてる?」
 結衣が悪戯な笑みで僕の顔を覗き込んだ。
「ありがとう。」
 今度は僕が反対の手でぎゅっと握り返した。結衣の目をまっすぐに見つめながら言った。
「お母さんは?行かないで。ここにいてほしい。」
 結衣はじっと僕の目を見て、微笑んだ。
「言ったでしょ。私、亮介君と一緒にいたいから。それに、お父さんもいるしね。お母さんとは一緒に行かない。」
 そう言って、ふっと目線を地面に落とした。
「本当は、少し迷ってたの。私を置いて出ていったこと、お母さんが泣きながら何度も何度も謝るから、私のこと忘れてなかったんだなって嬉しかったし、少しでもお母さんのこと忘れちゃってた自分のこと反省した。やっぱりお母さんのこと大好きって思ったし。」
 一生懸命に笑顔を作ろうとしているのに、口元は震えていた。
「でも、残ってよかった。これで離れたら、亮介君とお父さん、同じになっちゃうもんね。」
 結衣の頬を涙が伝った。
「これでよかったよね、私。」
 小さな声で結衣がつぶやいた。僕はわざと明るい声で、
「お母さん、きっとまた会いに来てくれるよ。」
と静かな公園に響くような大きな声で言った。
 結衣がぱっと顔をあげ、空を指さした。
「見て。お母さんの雲。お母さんが帰るときにできた雲。」
 夕焼けの空に、煙のように縦に伸びた雲があった。滑らかに伸びた美しい雲だった。
「あれは天女の雲なんだね。」
 僕と結衣は手をつなぎ、しばらく空を眺めていた。

 

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