小説

『天女雲』小林睦美(『天女の羽衣』)

「家、遠いの?」と聞いた僕の問いに結衣が答えた場所までは、歩いて帰るには少し距離があったし、もう外は大分薄暗かったから、僕の自転車の後ろに乗って帰ることをすすめた。断られるかと思ったけれど、結衣は意外にも自転車に乗ることを承諾してくれた。
 自転車を取ってくるから待っててと急いで自転車置き場に向かった僕の足は、とても軽やかだった。自転車を引いて校門に向かう途中、ふと目を向けた花壇の脇に何か落ちているのを見つけた。暗くてよく見えなかったが、まさかと思い近づくと、自転車の鍵だった。もちろん結衣に渡そうと思いそれを拾ったが、校門で待っていた結衣の姿を見た瞬間、僕は持っていた鍵をポケットにそっとしまった。そして結衣を後ろに乗せ、自転車を走らせた。
 帰り道、初めは沈黙しないようにと気を遣って話していたけど、外が暗かったせいか、二人ともなぜかだんだん声が大きくなるのに比例して、会話も盛り上がった。すっかり調子にのった僕は自転車の鍵が見つかるまではと、これから毎日帰り道は自転車で送ることを約束した。本当は行きも迎えに行きたかったけど、朝は歩いて行くからとやんわり断られた。
 それからは毎日学校へ行くのが楽しみになった。授業中はまだ終わらないのかと時計ばかり見て集中できなかったけれど、こんなに学校へ行きたいと思ったことは初めてだった。でも、自転車置き場に置かれたままの結衣の自転車を見るたびに、心がざわついた。鍵を見つけたことを早く言わないといけないことはわかっていたのに、「ありがとう。それじゃ。」と終わってしまいそうで、結局渡せないままだった。

「今まで黙っててごめん。本当はあの時鍵を見つけてたのに。」
 僕が嘘を告白した後、結衣はしばらく何も言わなかった。その沈黙が怖くてもう一度、「ごめん」と言おうとした時、結衣が口を開いた。
「その鍵はどうしたの?」
「持ってるよ。もちろん今も持ってる。」
「え?今も持ってるんだ。はははっ。」
 結衣が突然笑い出したから、僕は何が面白いのかわからずに戸惑った。
「じゃ、今から返してくれる?」

 さっき別れた公園へ行くと、ベンチに結衣が一人で座っていた。夕焼け色で赤く染まった公園にいるのは僕達二人だけだった。
「結衣。」
 声を掛けると、結衣は微笑みながら言った。
「亮介君は嘘つきだね。早く言ってくれればよかったのに。」
 なぜかニコニコしている結衣が不思議だった。
「ごめん。結衣と一緒にいたかったんだ。これを渡したら僕は一緒にいられないと思った。」
 そう言って結衣の前に鍵を差し出した手に、ふわりと結衣の手が重なった。はにかんだ表情の結衣の頬が、少し赤くなった。
 

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