小説

『天女雲』小林睦美(『天女の羽衣』)

 普通なら信じられないような話だが、嘘をついているとは思えない結衣の話しぶりに、すぐに彼女の話を信じた。第一、結衣は冗談でそんな話をするタイプではない。僕は結衣のお母さんが天女だという話よりも、彼女を迎えに来たと言ったことのほうが気になって仕方がなかった。結衣は、「今更出てきたって遅いよ」と言っていたがどうだろうか。傍でいつも結衣を見ていた僕にはわかる。彼女が戸惑っていること、そしてそれ以上に母親との再会を喜んでいること。
 明日、お母さんはまた結衣に会いに来る。彼女はここに残るだろうか。もしお母さんと一緒に行ってしまったら。考えるほど眠れなくなり、僕は何度も寝返りをうちながら、答えの出ない「もし」のことばかりを考えていた。

 眠ったのか眠らなかったのかよくわからないままに朝を迎え、僕は学校へ行った。珍しく丸一日居眠りをせずに授業を聞いていたのに、全く授業の内容は頭に入らなかった。そして気づけば時計の針は学校を出る時刻を指していた。正門へ向かうと結衣が先に待っていて、こちらに笑顔を向けているのが見えた。結衣も眠れなかっただろうと考えていたが、そんな感じはしなかった。
 聞きたいことはたくさんあって、言いたいこともたくさんあるのに、先を歩く結衣がいつもより速足なせいで、家までの距離はどんどん近づいてしまう。結衣のそんな様子から、早くお母さんに会いたい気持ちが伝わってきて、もう二度と僕達が一緒に帰ることはないかもしれないと思った。
 いつもの河川敷の前を通りかかったとき、少し話ができるかと思ったけど、結衣はそのまま通り過ぎてしまった。僕に話すことなんて何もないのかと、道の小石を蹴った。結衣は少し立ち止まって、僕の蹴った小石の行き先を結衣の目が追っていた。コロコロ転がる小石は側溝の蓋の隙間に落ちて、ポトンと小さな音をたてた。何か話さなきゃと僕の気持ちを焦らせた。
「お母さん、今日来るんだよね?」
 やっとの思いでそう聞いた。思ったよりも声が大きく出てしまった。
「うん、もう来てるかな。急いで帰らなきゃね。」
 さっきよりも速足になって歩きだした結衣に、僕は少し後れがちでついていき、それ以上は何も聞けないし、言えなかった。
 黙ったまま速足で歩き、結衣の家の近くの公園を通りかかると、ベンチに女の人が座っているのが見えた。遠目で顔がよく見えないけれど、直感で結衣のお母さんだと思った。
 女の人はこちらに気がつくとゆっくり近づいてきた。腰まで伸びた髪の毛はふわりと風になびき、柔らかそうな白い肌は透明感があり、少し茶色がかって見える瞳は大きく、優しかった。とても美しい人だった。
「おかえりなさい。」
 優しく微笑んだ顔は結衣にとても似ていた。
「ただいま、お母さん。この人は亮介君。同じ学校に通ってて、いつも一緒に帰ってるの。」
 結衣の、それ以上でもそれ以下でもない紹介に、僕の胸がひりっとした。
「じゃあ、お母さんと二人で話があるから。」
 意外にもあっさりとした別れに戸惑いつつも、完全に部外者である僕は、何か言葉をかけることもできず、結衣と別れた。しかしこのまま家に帰る気にもならず、自然に足はいつもの河川敷へと向かっていた。自分の格好悪さに涙が出そうになり、そんな自分がもっと格好悪いと思った。
 

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