小説

『天女雲』小林睦美(『天女の羽衣』)

「お母さんがいなくなった日ね、私の誕生日だったんだ。学校が終わってから急いで帰ったの。ケーキ買いに行こうねって約束してたから。家に帰ったらお父さんがいて、あれ?仕事は?早いね、って言ったら、うん。って。それだけ。その時わかったの。お父さんが泣いてたこと。『お母さんは?』って聞いたら、ただ『ごめん。』って。その時のお父さんの顔見たら、それ以上聞けなかった。子どもだったのに。あの時私まだ子どもだったのに、お母さんがいなくなってもう帰ってこないって、なんかわかっちゃったんだよね。」
 そう言って結衣は初めて僕のほうを向いた。二重瞼のぱっちりとした瞳の奥が揺らいでいるように見えた。
「それから、お母さんは死んだことになって。でもなんかやっぱり町では噂されてさ。仕事も学校もあるし、我慢してあそこに住んでたんだけど、お父さん定年になって仕事やめて、それでなんか切れちゃったんだよね。もういっか、ってなって。もう充分頑張ったよねって。それでここに引っ越してきたの。ここに来て、友達はあまりできなかったけど、亮介君と友達になれたから楽しかったんだ。お母さんのことも忘れそうになるくらいね。もうあれから六年だしね。実際忘れてたよ、私。それなのに。」
 結衣は一度息をふう、と吐いて続けた。
「それなのに昨日、お母さんに会っちゃったんだよね。」
「え?お母さん帰ってきたの?」
思わず尋ねた。
「ううん。迎えに来たんだって。私のこと。」
「迎えに来たって?どこに行くの?」
「…一緒に天に帰ろうって。」
 そう言った結衣の逡巡した表情は、僕が初めて見た顔だった。

 僕は家に帰ってから、河川敷での会話を思い出していた。結衣のお母さんは昨日の帰り道、僕と別れてから突然結衣の前に現れたそうだ。久しぶりの再会に驚いて声の出ない結衣を前に、自分は天女だと言い、あの日、家を出た日のことを話し出したそうだ。

 結衣の母、美和は、ある日地上に降りた際に、人気のない綺麗な湖を見つけ、少しだけならと思い水浴びをしていた。天女達は普段空の上にいるので水浴びすることはできないし、あまり地上に来る機会はないので、つい時間を忘れ夢中になってしまった。急いで帰らなければと思い、羽衣を置いた場所へと戻るが、どこにもない。羽衣がないと天へ帰ることができない、どうしようと泣いていると、男がやってきて、どうしたのかと声を掛けてきた。それが結衣の父である敬一だ。
 敬一は帰れないのなら一緒においでと自分の家へと美和を連れていき、頼る相手のいない美和は敬一と過ごしているうち、その優しさに次第に惹かれていき、二人の間には間もなく子どもができた。三人は、裕福ではないが幸せな毎日を送っていたが、時々美和は天にいる自分の両親や仲間を思い出しては、涙を流していた。
 そして結衣の何度目かの誕生日。美和は結衣の成長を見ようと押入れの中にあるはずのアルバムを探した。段ボールを見つけ、その中に入っているかと思い開けてみると、そこには、なくなったはずの羽衣が入っていた。すぐに敬一に電話をすると、仕事を早退して帰ってきた敬一は、「あの日、とてもきれいな布が落ちているのを拾った。すぐ近くの湖で見た美和があまりにも美しく、声をかけると探し物をしていると言った。もしかしたらと思ったが、これを渡すとそれで終わってしまうと思い、もう少し、もう少しだけと思っているうちに、後戻りができなくなってしまった。」と謝った。美和は敬一のことを許すことができず、その羽衣を身にまとい、天に帰って行った。
 

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