後から来た者に先を越される。夏目漱石の『こころ』と同じだ。
先生と呼ばれている人物が登場する。その先生が学生の時、下宿先の娘に好意をいだく。先生にはKという友人がいて、親に勘当され貧乏暮らしをしている。見かねて先生は、一緒に暮さないかと下宿に誘う。が、娘とKが親しくなり、先生は嫉妬にあえぐ。あせった先生は先手を打つ。娘の母親に取り入って結婚の承諾を得る。それを知ったKは自殺してしまう。結婚後の先生は、自分の卑劣な行為、自責の念に虚無的な生活を送り、そして遺書を書く。
僕は須川のあることを知っている。あの夜、須川自身から聞いたのだ。それは切り札になる。それを使えば、彼女は須川をあきらめるしかないだろう。いや、必ずあきらめさせてみる。
しかしそのことは、絶対的に僕を信頼して須川は告白したのだ。
秋子さんを自分のものにしたいがために、親友を裏切ってまで言っていいものなのか。そのことを僕以外の人間に知られてしまうことよりも、僕に裏切られたということの方が、ショックは大きいかもしれない。
僕はこう言った。
「今から言うことは、須川のために、あなたの胸の中だけに仕舞って置いてくださいね」
一呼吸した。その時『こころ』の中の一文が脳裏を過った。
『策略で勝っても人間としては負けたのだ』この言葉に気持ちが揺らぐ。自分が卑劣な人間に思えてきた。言ってしまえば本当に卑劣な人間になってしまう。
が、それともう一文思い出す。『恋は罪悪ですよ』昔も今もそうなんだ。好きな女を自分のものにするためなら誰だって何でもやるだろう。普通のことなんだ、と逆にこの言葉に背中を押された。