それからしばらくして、鈴木は会社を辞め、東京へ行ってしまった。
姫乃は、夜になると月を見ながら涙を流すようになった。ほかの男達が熱い太陽だとしたら、鈴木は温かい月だと思う。恰好よくなくてもいい。おじさんでもいい。お金持ちじゃなくてもいいから、側にいたかった。
「……泣いてばかりいても、仕方がないわ」
姫乃は自分に言い聞かせる。
そして翌日、美容院へ向かい、自慢だった長い髪をばっさりと切ったのであった。私は鈴木の娘ではない。誰の代わりでもない、ひとりの女なのだ。そう思いながら、姫乃は軽くなった頭で机に向かい、辞表を書き始めた。
「姫乃さん、何か欲しいものがあったら言ってよ」
朝。いつものように、しつこい上司の男と駅で会ってしまった。今までならば、無理な注文や曖昧な言葉で濁してきた。しかし、もう、そんな必要はない。
「結構です。欲しいものは、自分で手に入れます」
ばっさりとそう言い切った。そして続けて、
「私、会社を辞めて東京へ行くことにしました。今日、課長に辞表を提出します」
と言って、コートのポケットからその封筒を出してみせた。
やっと本当に欲しいものを見つけた。誰にも頼らない。きっと私は、自分の努力で鈴木を振り向かせてみせる。そのためには、離れた場所にいては意味がない。欲しいものを手に入れるには、自分から追いかけなくてはいけないのだ。
「東京の、どこへ行くんだ」
しつこい上司の男は、今にも泣き出しそうな声でそう聞いた。姫乃は臆することなく、こう返す。
「月島です」
そして、現実を受け入れられず、ついに立ち止まってしまった上司の男を置いて、姫乃はひとり会社へ向かった。上司の男は、もう二度と姫乃に会えないのではないかという気がしてならず、まるで姫乃が本当に月に行ってしまうかのように、彼女の姿が見えなくなるまで、見つめていたのであった。