小説

『雪まろげ』貴島智子(雨月物語『菊花の約』)

 馨は息を飲んだ。銕之丞にもしものことがあったら……
 こんな言葉がある。「人一日に千里を行くこと能わず、魂よく一日に千里をも行く」
 思いがけず囚われの身となった男が、義兄弟の契りを交わした男との再開の日時を守るため、自ら命を絶って遠方に住む義弟の元へ魂を飛ばした。人は一日に千里を歩くことはできないが、魂ならそれができるからだ。時を急いだ男のまさしく決死の判断だったという話だ。
 躰を亡くしても、その想いは人の元へ訪れることができる。
 もしや、枕元に立った銕之丞は、既にこの世のものではなかったのではないのか……思いがけない事態に巻き込まれ、事切れた銕之丞の魂が薬を持ち帰りたい一心で……いや、そんなはずはない。奴に限って、そうやすやすと命を落とすことなどあるはずがない。しかも、千里も離れた場所へ薬を買い行った訳ではないのだ。銕之丞は一体どこへいるのだ。いっそ、自分がここで腹掻っ捌いて、銕之丞の元へ今すぐ飛んでいきたい。己の無力さに押しつぶされそうになったその時、向こうから雪深き道を脱兎の如く走り来る塊が見えた。

 銕之丞だ。

「お、お主、生きていたのか?」
 馨は、勢いのついた銕之丞の腕をぐっと捉まえ足を止めさせた。この腕のしなやかな感触、間違いなく銕之丞のそれだ。
「は?生きておるわい。なに訳の分からぬ事を申しておる。急いで薬を持ち帰らねばと思っていたのだが、途中で飼い猫を見失った子どもに出会ってな。両方に雪に埋もれて死なれては困るだろう。それですっかり遅くなってしまった。すまんすまん。ところでお主、こんなところで何をしておる?熱は下がったのか?」

猫を探していただと……馨は一瞬面喰ったが、いかにも銕之丞らしい理由だと、自然と笑みがこぼれた。
 

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