小説

『雪まろげ』貴島智子(雨月物語『菊花の約』)

 銕之丞は慌てて行李の中を探ったが、こんな時に限って熱さましの地竜を切らしている。そういえば前回の旅の帰り、子供が熱を出して困っているという母親に差し出した事を思い出した。
(あの親子は元気に暮らしているだろうか……)
 銕之丞は馨の事を女将へ頼み、足元を取られる雪道に苦戦しながら、番頭に教えられた少し遠くの薬屋へと急いだ。

 雲がゆっくりと空に広がり、ひらひらと薄い雪が風に舞い始めた頃、襖が静かに開き、その音で馨はぼんやり目を覚ました。
「具合はどうだ」
 慌てて戻ってきたのか、薬を手に佇む銕之丞の髻が少しみだれ、袴の裾には土の混ざった雪がついている。
「あぁ、銕之丞。済まない」
 布団からゆっくり体を起こす馨の背中に、銕之丞がすっと手を添え、熱で赤みを帯びた馨の唇へ、手際よく水筒の水と薬を運んだ。あまりの水の冷たさに、喉のあたりが鈍く痺れる。
「さあ、これでじき熱も下がるであろう。もうひと眠りしろ」
 馨は子供のようにコクリと頷き、再び布団へ体を預けた。銕之丞の姿が、陽炎のように揺らめき霞んで見える。熱のせいだ。馨の意識はゆっくりと遠のいていった。

 どれくらい時が経ったであろう。眼前のうす雲が消え、体中にしっかりとした感覚が戻ってきた。全身を襲う寒気もない。薬が効いたらしい。
「お目覚めですか」
 馨がハッと目を見開くと、心配そうに覗き込む女将の顔があった。あたりをぐるりと見渡すが、銕之丞の姿がない。女将に行方を尋ねると、朝、薬を買いに出かけたまま、まだ帰ってこないと心配そうに廊下に目をやった。
(そんな……あいつの指先が唇に触れる感覚が確かにあったのに)
 銕之丞が薬を持ち帰り飲ませてくれたことを説明するが、そんな形跡は微塵もないと、女将は首をかしげた。
「ほほほ、熱の悪戯でしょう。とにかく、お顔の色が少し良くなられたようで安堵致しました。それにしても、遅うございますね。暗くなる前にお戻りになられるとよいのですが。最近は人の往来が激しくなりまして。賑やかなのはいいのですが、物騒な事も増えました」
 こともあろうに女将は、先日起きた辻斬りや強盗の事を語りだした。そのあまりに酷い結末に、居ても立ってもいられなくなった馨は、女将の制止を振り切り、身支度もそこそこに押っ取り刀で旅籠を飛び出した。
 雲の切れ間から真っ赤な夕日が顔を出し、道々の雪をも赤く照らす。まるで、血の滲んだ真綿のようで、馨の胸をざわつかせる。漆黒の一団が、カァカァとけたたましい声をあげながら、頭上を通り過ぎ、一点めがけて下降する。どうやら、今宵の餌を見つけたようだ。
 

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