小説

『裸のオーサワ』丸山肇(『裸の王様』)

 エンゼルドラッグから口臭ケアの商品群を購入した日、オレにとって、それ以外のことは特別では無かった。
 ただ、ベッドに入ってからは、いつになく気持ちよく眠りに就けたような気がした。次の朝の寝覚めにそう思った。寝起きの口内の酸っぱさや、ネバネバ感も、前日までより無い気がした。早い時間に尿意で目覚めることもなく、珍しく朝寝坊してしまった。
 二世帯住宅にしているが、ふだんの食事は若夫婦の広めに造ってある食堂で食べることにしている。着替えて向かうと、一平は既に出社していた。

 
「お義父さん、将平が失礼なこと言いませんでした?」
 嫁の由里子さんが開口一番そう言った。なんのことだろう。
「一平さんが何度も繰り返して見ているテレビの録画があるんですよ。ゴルフのレッスン番組なんですけど……」
 オレは肩を傷めクラブを握らなくなってから久しい。ゴルフがどうしたというのだ?
「録画の終わりのところでいつも同じCMが流れるんです。入れ歯の洗浄剤のCMですけど。画面で子役が嫌そうな顔をして『おじいちゃん、お口臭い』って言っていて、それを将平が覚えちゃったらしくて」
 そうだったのか。オレの脳裏には、近い過去の「口臭対策」に悩み奔走した場面が一気に浮かんでは消えた。将平がリビングでおもちゃ相手に遊んでいる。
「将平、こっちにおいで」
 オレがそう呼ぶと、駆けて来て膝に入った。
「おじいちゃん、いい匂い」
 たぶん、トーストにたっぷり塗ったイチゴジャムの香りだろう。エンゼルドラッグで薦められたカロリーオフの食品だ。将平の言っていることは、今度はおそらく本人の気持ちを表した本当のことだ。「裸の王様」の童話のなかで「王様は裸だ」と事実を叫んだ子どものことばとは逆に、孫が発した事実とは離れたことばで、オレは勝手なイメージを自分自身に刷り込んでしまい、翻弄された。
 もし自分の口が臭かったにしても、人ならだれでも起こりうること。気を付けてこまめにケアすれば、解決できるし、何でもない。そう割り切れるようになれた。
デンは商売っ気のある話をする半面、プラセボ効果のことを教えてくれた。薬効の無い薬でも、効くと思い込めば実際に効き目を発揮してしまうこと。その話を云々する前に、催眠療法に近いセールストークのデンに騙されるのもいいじゃないかと、オレは既に納得している。人からムリ・ムダ・ムラをそぎ落としてしまったら、それはそれで味気の無い世界になってしまう。
 還暦を過ぎた人生の中で「人には実態より感じていることの方が重い」と言える場面にときどき出くわして来た。実態が分かって幸せなこともあれば、不幸なこともある。実態が分からずに幸せなこともあれば、不幸なこともある。
ただし、オレは今日から、人前で堂々と口を開けて、息を大きく吐き出しながら話そうと決意した。
 

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