小説

『猫島』龍淵灯(宮古島『マムヤ伝説』)

 波に混ざって、違う音が聞こえた。振り向くと、漆黒の猫がいぶかしげな目つきでほのかを睨みつけていた。
 笑みがこぼれる。いそいそとカメラを取り出し、早足で近づいていくと、黒猫はぱっと身を翻して走っていった。
「待ってよ」
 幼稚園児に戻ったように、ただ楽しくて黒猫を追いかけた。
 黒猫はときどき、からかうように立ち止まってほのかを確認する。猫が導いているようにも見えた。
 黒猫を追ってたどり着いたのは、朽ちた小さな商店街だった。ひび割れたアスファルトからは膝丈ほどの草が力強く葉を伸ばし、かつてペンキで書かれていたであろう看板は、長年の潮風にすっかりあせていた。降ろされた店のシャッターが、潮気で白茶けている。
 ここが捨てられて何年経つのかは判らなかったが、もはやヒトの支配が及んでいないことは明らかだった。いるのは、何十匹という猫。
 ひさしの影でまどろむ猫。しっぽを立てて道路を横断する猫。ほのかに一瞥をくれると、興味なさげにあくびをする猫。
 昔はヒトで賑わっていたであろう商店街は、今は猫が我が物顔で往来していた。
「あはっ……!」
 カメラを構え、何度もシャッターを切る。
 ファインダーを覗いたままカメラを動かすと、あの黒猫がちょこんと座り、緑色の瞳で見つめていた。
「動かないで……」
 シャッターに乗せた指に力をこめた瞬間、黒猫はファインダーから消えた。
 カメラから眼を離すと、黒猫はまた軽い足取りで逃げ出していた。
 快活な昂揚が、すうっと湧きおこる。不思議の国のアリスが白ウサギを追いかけたように、あの黒猫が、どこか知らない場所に連れて行ってくれるような気がした。カメラをしまい、黒猫に駆け足でついていく。
 黒猫は追跡者の速度に合わせるようにときどき振り返るが、決して追いつかれない距離を保っていた。
 やがて、短い商店街を抜けると、見たことのない光景が広がっていた。かつては二車線の道路だったであろう、ぼろぼろのアスファルトの両側には、ほのかの背をはるかに越える高さの、太い茎の植物が密生していた。
「さとうきび……?」
 ヒトの手が入らなくなって久しいさとうきび畑は、ヒトひとり入る隙間さえない密度で生え、緑の壁のようだった。
 黒猫が、小さな地割れを身軽にかわしながら、朽ちた道路を進んでいく。さとうきび畑の角を左に曲がる。ほのかもそれに続く。
 突然、異物が眼に飛びこんできた。さとうきび畑の中に、巨岩が鎮座していた。空から落ちてきたとしか思えないような唐突さだった。ほのかが呆然としている間に、黒猫はさとうきびの林の中に滑りこんだ。あの巨岩の方向だった。
 不思議の国、という連想が、ほのかの好奇心を刺激した。ためらわず、さとうきび畑に飛びこむ。漕ぐように太いさとうきびをかき分け、踏みしだいて進んでいく。
 さとうきびの隙間から、黒猫の姿がちらちらと見えた。それを頼りに、ひたすらさとうきびをなぎ倒していく。いきなり、畑が終わった。現れた空間の中には、巨人が磯から拾い上げたような荒々しい岩がそびえていた。思ったより大きく、大人が二十人いても、抱えられそうになかった。
 黒猫の姿は、どこにも見えなかった。岩を見上げながらゆっくりとめぐり、黒猫を探す。半分ほど回ったところで、大きな割れ目があった。二、三人が並んで入れるほどの幅があり、入口には石造りの鳥居が立っていた。柱には「御嶽」と彫られているのがかろうじて読めたが、他の字は潮風で擦り切れていた。
 鳥居の奥は濃い影に塗りつぶされていて、何も見えなかった。ぞくりと、悪寒が背中を這う。
 不思議の国探しに高揚していた気分が、急速に冷えていく。ここは不思議の国ではなく、禁じられた場所ではないか。そう直感した。この島には、ほのかひとりしかいないことを思い出し、腕に鳥肌が立った。
 赤ん坊の声が聞こえた。

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