小説

『猫島』龍淵灯(宮古島『マムヤ伝説』)

 三機目の飛行機を降りたとき、太陽は空の彼方に沈もうとしていた。晩秋とは思えないほど、空気が暖かい。
 多良間空港の小さなターミナルを、買ったばかりのキャリーバッグを転がして歩いていく。国内での移動のために、三回も飛行機を乗りかえた。地の果てまで来てしまった、と改めて思う。
 一週間の有給休暇を申請したときの上司の顔は傑作だった。勇気を出して「傷心旅行です」と言ってのけると、あたふたしながら決裁をくれた。
 足取り軽く、ロビーへと出る。ほのかを見とめ、手を振る男がいた。秋だというのにかりゆしを着て、赤銅色の顔に熊ひげを生やした中年男だった。破顔といっていい笑顔に、つられて笑う。
「お久しぶり、下地のおじさん」
「ほのかちゃん、すっかり大人っぽくなったな。おばさんが旨いものをたくさん作って待ってるんでな、早く行こう。猫島は明日連れてってやるからな」
 下地は、母の妹が嫁いだ男だった。あまりに遠くに住んでいるので、盆正月にもめったに顔を合わせたことがない。最後に会ったのは、五年前だった。
 下地の軽自動車に乗りこみ、多良間島を北東へと走っていく。起伏のほとんどない、せんべいのような島だった。すぐに、島の北部にある前泊(まえどまり)港につく。そこに下地の家と船があった。
「こんな遠くまでご苦労様。さあ、あがってちょうだい」 
おばが玄関まで迎えてくれた。すぐに宴会が始まる。下地の家族だけではなく、近所の人々が料理や泡盛を持ち寄り、十人ほどもいた。
水で割った泡盛をちびちびと飲み、タマンという口の尖ったたくましい魚の煮付けに箸を伸ばす。最初こそ圧倒されていたが、泡盛がまわるにつれ、ほのかは宴の空気になじんでいった。泡盛が充分まわったところで下地が三線(さんしん)を持ち出し、爪弾きながら島唄を歌い始めた。

ぼらぴやうなまむや あらんまりみやらび
ぬのぐすくぬあず さきやまのぼう

 島言葉の歌詞はまったく判らなかったが、皆は物悲しげな歌に手拍子に合わせていく。いつしかほのかも手拍子に加わっていた。
 宴もたけなわのところで、ほのかは風に当たりに外に出た。家の前に、珊瑚砂の浜辺が月光を浴びて青く光り、緩やかな波が規則正しく打ち寄せる。
 ほのかは、波打ち際へと砂を踏んでいく。しゃがんで、足元を洗う波をぼうっと眺めていた。
 顔を上げて、水平線へと眼をやる。巨大な入道雲が、城のように青白くそびえていた。頭の底に溜まった淀みが、さらさらと溶け出していく。ポケットからカメラを取り出し、雲の城を何枚も写真にした。

 下地の漁船は朝日の中、エメラルドの波を切って走る。上下に揺れる船も、塩からいしぶきを含んだ風も、ほのかの心を高揚させてくれた。小さな船だが、経験したことのない最高の贅沢だった。
 港を出てから三十分後、多良間島をひとまわり小さくしたような平べったい島影が見えてくる。猫島だった。
 船は、岩場をつるはしで掘ったような船着場に到着した。下地はロープを持って身軽に飛び移ると、赤く錆びた係留杭に船をもやう。分厚い手を差し出され、ほのかは手をとっておっかなびっくり上陸した。
「夕方には迎えに来るからな、楽しんでおいで」
 そう言うと、下地は船に乗りこんだ。バックで船着場を出た船はやがて向きを変え、水平線へと消えていった。
 誰もいない船着場に、しばらくたたずんでいた。人の声や機械の音といった人間の気配はまったくない。ただ波が岩場で優しく砕ける音だけがずっと繰り返されていた。完全な孤独であることに怖気を感じたのは、わずかな間だった。
「自由だーっ!」
 海に向かって叫ぶ。驚く者も嗤(わら)う者もいない。そのことがこの上なく嬉しい。

1 2 3 4 5