小説

『わらしの思い出』岡田千明(『座敷童子』)

 一歩踏み入れた瞬間、しばらく閉ざされていた家独特の香りが飛び出してきて身体を覆った。まるで、解放されるのを、首を長くして待っていたみたいに。この家の、止まっていた時間が一気に動き始めた。
「ちょっと段差があるので。お気をつけて」
松崎さんは、手に持っていた袋からスリッパをだして、並べてくれた。
恵美もう興味津々で、さっそく一番手前の部屋を覗く。僕は、少し高い上がり框がお腹の大きくなる妻に負担にならなければいいがと思いながら、2足分の脱いだ靴を揃える。
「おかえりなさい。」
かがんだ腰を上げようとした時、うなじの辺りから声が聞こえた。女の子の高い声。
「え?」
ふいの出来事につい声が大きくなった。
「どうしたの?」
妻が、問う。
「いま、子供の声がしなかったか。」
「え?いいえ。」
空耳か。いや、確かに聞こえた。おかえりなさい、と。
「いや、なんでもない。風の音がそう聞こえたってだけだ。」
妻が少し気味悪そうな顔をしたので誤魔化す。
「空気がこもっていたので窓を開けましたよ。さ、こちらからどうぞ。まず、居間ですね。」
松崎さんのよく通る声が呼んだ。

 部屋数は居間と台所を除いて3つあった。寝室と、子供部屋と、客人用の部屋として使われていたらしい。ひと通り中を見終わった後で、松崎さんと妻は台所の水回りのリフォームや、冷蔵庫、食器棚の配置についての詳細な話をしている。特に口を出さない妻の唯一のこだわりが台所だ。そこは完全にお任せすることにして、私はもう一度子供部屋だったという8畳の一室が見たくなった。西側の一番奥まったところ。もしかしたら、しばらくは自分の書斎にできるかもしれない、という淡い期待を抱く。畳は結構擦り切れて、色合いも薄黄みかかった肌色に変色している。しゃがんで手で撫でると、ささくれ立っていて指にちくりとする。と、突然、背後に人の気配を感じた。ぱっと振り向いた瞬間、傾いてきた陽の光が窓をつきぬけて目を刺した。誰もいない。気のせいかと一息ついた時、窓の桟に挟まっているビー玉に気付いた。ちらちらと西日を反射しながら、存在を主張している。ここに住んでいた子供が遊んでいたものか。ソーダアイスを想起させる色合いだ。手に取るとしっとりと冷たく、しかし握るとすぐに熱が伝わって体温と同じになった。
 その時、急に切ないような懐かしいような、慕情が沸き立った。ふいに感じる、郷愁。東京で生まれ育った自分が、ここでそんな感情を抱くのは滑稽だろうか。自分でも訳がわからなかった。それでも私は、この家を昔から知っていたような気がする。デジャ・ヴの一種だろうか。
 この家は、私を待ち焦がれてくれていた。私は、ここに呼ばれて、帰ってきた、そんな気がしてならなかった。赤い夕陽がひろがる。カラスが鳴くから帰りましょ。だれもが一度は口ずさんだメロディ。

「…ありがとう。でも。」
「でも?」
「出来るかしら。ずっとここにいられるかしら。」
「わらちゃんは何を困っているの?」
「あなたはそのうちに、ここからいなくなってしまう。」
「う~ん。そりゃ、明日は学校に行くから、ずっと家にはいれないけど。帰ってくるじゃないか。」
「そういうことではないわ。帰ってこなくなっちゃうかもしれない。」
「何言ってるの、わらちゃん。カラスが鳴いたら帰らなきゃいけないんだよ。ずっと学校にいたら、先生に怒られちゃうんだ。」
「カラスが鳴いたら。」
「そうだよ、そういう歌が流れるんだ。下校の音楽だよ。だから、心配しなくていいんだよ」
「そうね、そうね。ありがとう。」

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