小説

『お留守番』大場鳩太郎(『オオカミと七匹の子ヤギ』)

 それに応えようと身体を動かそうと思ったが、膝を組んでいる腕は硬直したままで、膝も屈めた形のまま変わらなかった。力の入れ方を忘れてしまったみたいで身体を揺することしかできなかった。
 お母さんは僕の固く組まれた手を解いて、引っ張り起こした。
 ようやく僕はよろよろと立ち上がった。身体中の関節が錆びついてしまったようにぎこちなくしか動かなかった。筋肉が強張ってしまっているらしかった。
「何かあったのね?」
 その言葉に、僕は答えようとしたが「あー」という赤ん坊のように言葉にならない声しか出てこなかった。
 喉が痙攣しているかのように震えていた。
 気づかないうちに僕は涙を流していた。

 ひとしきり泣き終ると、鼻水と涙で服の袖がベチョベチョになっていた。
 タオルを持ってきたお母さんが、ゆっくりでいいから何があったか話なさいと言った。それで僕はしゃっくりをしながらたどたどしく、あいつについて説明し始めた。
 お母さんの声を真似ていたあたりを離すときには信じてもらえないかもしれないと不安に思った。けれど口を挟まずに相槌を打って聞いてくれていた。
 全てを話し終えると母さんは大きく頷いた。それから立ち上がり、電話機へと向かった。
 会社の偉い人に繋いだらしい、簡単な挨拶のあと、私用で明日、早く変えることはできないかとお願いした。
 それから僕の隣にやってきて言った。
「明日、学校から帰ってきたら、警察に行きましょう。それでなんとかしてもらいましょう」
「うん」
「でもちゃんと追い返したのね」
「うん」
 僕はすごく疲れているせいでそう答えることしかできなかった。
 けれどお母さんは偉いわと言って、また頭を撫でてくれた。
 うっすらと視界がまた滲んできた。

 翌日、自宅を出る時にお母さんから「お巡りさんきちんと事情を説明できるようにしておきなさい」と言われた。

 だから学校についてからずっと自分なりにどうすれば何があったのかを分かり易く伝えることができるのかを考えていた。
 昼休みになってからノートの反対側のページを一枚だけ破って、そこに歴史の教科書に載っているような年表のように出来事を順々に挙げてみることにした。
 けれどシャープペンシルを握っている手が震え出した。あの時の事を文字にしようとすればするほど怖くなってしまい作業が続けられなくなってしまうのだ。
 僕はしかたなく紙を丸めて机のなかに押し込んだ。
 僕は席から立ち上がって、教卓のうえで騒がしく大貧民を楽しんでいる金子くんたちの輪に混ぜてもらいに行く。
 わざわざ文章にすることなんてないさ。昨晩もお母さんに話すことができたんだし口できちんと説明できるはずだよ。
 配られた手札を確認しながら、僕は心のなかでそう自分を納得させた。

 帰りの会が終わってから、真っ先に家に帰る。
 ㈵号棟の出入口から階段を昇り、三階の踊り場までやってきいたところで、突然上のほうから「おかえりなさい」と言われびっくりする。
 顔をあげると、そこには階段の最上段に腰掛けて、頬づえをついているお母さんがいた。
 僕を待っていたらしい。口紅の塗ってある唇をにっとひっぱって笑っている。
「もお驚かさないでよね」僕は口を尖らす。
「ごめんごめん。とりあえず家に戻りましょう」
 帰宅するとお母さんは「ちょっとお化粧落してくるね」と言ってお洗面所に行ってしまった。
 僕はなによりもまず先に玄関に錠とチェーンをかける。
 まだ四時半頃。
 六時四十五分までにはまだだいぶあったけれど、必ずしも同じ時間にやってくるとは限らない。用心しておくに越したことはない。
 僕はランドセルをちゃぶ台に置いて腰を下ろした。
 
 ピンポーン。

 チャイムが鳴った。

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