小説

『お留守番』大場鳩太郎(『オオカミと七匹の子ヤギ』)

 ただとにかく僕はその手から抜け出そうと力いっぱいに腕を引く。けれどガムテープで何重巻きにして固定されたかのように動かすことすらできない。 
「離して! 離せよ!」
 僕は泣きそうになりながら、今度は拳を作って、手の甲を殴りつける。
 それも力が足りず、十分に腕を振る体勢も作れないせいか、何度殴ってもまったく手応えが得られない。
 それどころか逆に絞めつけがきつくなっていき、黄色く分厚い爪が肌のなかに食い込んできた。
 僕は痛みと恐怖で声にならない悲鳴をあげた。
 思い切って肩で金属のドアを押しつけた。勢いよくとまではいかないまでも男の手が隙間に挟まれる、一瞬だけ力が緩んだ。痛がったのがわかった。
 更に身を預けるようにドアにぶつかる。とにかく必死だった。我武者羅に何度も身体を離しては体当たりを繰り返し続ける。そして太い指が僕の腕を解放した。
 手が蛇のようにしなやかな動きをみせ、さっと隙間の向こうへと引っ込んでいく。
 僕はまたドアをしめると、また開けられてしまわないように手を放りつけるようにしてノブの下にある楕円形のコックへと持っていき捻った。
 ありったけの声を振り絞って叫ぶ。「お母さんはそんな手をしてない!」
 わけがわからないものに対してのせめてもの抵抗だった。
 するとそれに対しての返事であるかのように小さな呻きがドアの向こう側から聴こえた。冬の木枯らしのように似た嗄れ声だ。恨んで呪っているようでも、悔しがっているようでもあり、とても気味が悪かった。

 しばらくしてあいつは立ち去ったらしい。
 ただ足音が聴こえただけなので本当に居なくなったのかはわからなかった。
 僕はこれ以上、ドアに近づいて、覗き穴を見て確認することが怖くてできなかった。
 けれどその場を立ち去ることはできずに玄関の前で身構えて立っていた。
 そしていい加減なにも起きず足が疲れてきた頃になって、僕は背後を気にしつつも茶の間に戻ることにした。心のなかではまだ何か起こるような予感が消えず、安心できなかった。
 僕は座りこんでぎゅっと目を瞑った。それから何度も頭を振って膝小僧に擦り付け、止めさせようとする。しかし壊れたカセットテープのように言うことをきかなかった。
 お母さんよ。お母さんよ。お母さんよ。お母さんよ。お母さんよ。お母さんよ。お母さんよ。お母さんよ。お母さんよ。お母さんよ。お母さんよ。お母さんよ。お母さんよ。お母さんよ。お母さんよ。お母さんよ。
 頭のなかで望んでもいないのに繰り返し繰り返し響いてくる。
 僕はその声にしばらく抗っていたけれど、次第にその気力も薄れていくようだった。

 玄関のほうでガチャガチャとドアに鍵が差し込まれる音がした。それからチェーンに引っかかり、僕の名前を何度か呼んだ。反応がないとわかると再びドアが閉まる。
 しばらくしてベランダの方から物音がして、鍵のしていない引き戸が開いて誰かが入ってくる。
「ただいまー。なんでまたチェーンしてるのよ」
 お茶の間に踏み入れてきたその人影が、僕の目の中に入ってくる。
 女の人だ。背の高い紺色のスーツを着ている。背中の中ほどまである髪の毛を後ろで一本に束ねている。白いコンビニのビニール袋を持っている。
 お母さんだった。お隣さんのべランダを借りて入ってきたらしい。
 ふとお母さんはこちら顔を向けて、声を上げた。
「カズ。なんでそんなところにいるの?」
 目を丸くしている。角のほうで蹲っている僕を見て驚いているようだった。
 僕はなにか返答をしようとしたけれど、喉の奥からはひゅうひゅうと空気が漏れるだけでうまく喋れなかった。舌が死んだように動かなくなっていた。
 お母さんは腰をかがめ、ちゃぶ台に持っていたビニール袋を置くと、近づいてくる。
「大丈夫? 顔が真っ青よ?」
 かがみこんで、熱僕の額に手を当てた。それから「違うみたいね」とつぶやく。それから「立てる?」と訊いてくる。

1 2 3 4 5 6 7