小説

『ある日』辷(『もりのくまさん』)

 ある日、森の中、くまさんに出会った。
 森の中ではなかったが、私もあの日、くまさんに出会った。
 それは雨の日だった。霧のような細かい雨の中、その人は笑っていた。

「こっちに来ちゃだめよ」
 初めは、何を言っているのかよく聞こえなかった。私は耳に手を当て、「聞こえなかった」ということをアピールした。
 その人は両手をクロスさせると、「だーめ!」と悪戯っぽく笑って言った。その太陽を一杯浴びた少女のような笑顔に私の心は揺り動かされた。
 私は一歩前に踏み出した。

 全てに行き詰まっていた。自分の研究は遅々として進まず、それなのに課題は増える一方、下宿と研究室の往復で終わっていた一日が、夏が終わるころには研究室に泊まり込む一日に変わっていた。
 そして秋の裾が見え始めたころ、学部時代から付き合っていた彼女に振られた。皮肉にも付き合って三年目の日だった。彼女は何も言わなかったが、おそらく敢えてこの日を選んだのだと思う。昔から抜け目のない女だった。よく気が利いて、どちらかというと不器用な私を影ながら支えてくれていた。気持ちが変わるとここまで残酷な真似が出来るようになるのだなと、もう私のことを見ていない透き通った鳶色の目を見ながらそう思った。
 全てを失ったかのように思われた。世界が一瞬で色を失って、灰色の空が重たくのしかかってくるような気がした。しかしそれでも研究と課題はいつも通り私の前に立ちふさがった。そして気が付いた。私の世界は元々灰色だったと。
 彼女の残していった服などを処分していても、何も感じなかった。
 悲しくないということが、何よりも哀しかった。

 旅に出ようと思い始めたのはいつからだったか。
 たまたま研究室の都合と、その他諸々の都合が上手く重なって三日の自由がとれた。しかしいざ自由にしていいと言われると何をしたらいいのかわからなかった。
 朝、部屋を出て目の前を通る一本の道を見てふと思った。
 このまままっすぐ進んだら、その先には何があるのだろうか。

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