と大将は笑顔で言って手を振ってくれた。
わたしは頭を下げ、レジでお金を支払い、店を出た。大将の最後の言葉が意味深くて、何だか激励のように思えて、思わずふり返った。ホッピーの提灯が、あっという間に夜になった暗闇の中に、鮮やかに灯っていた。
店を出て、彼女を待つために、わたしはバスで駅に向かった。独り用の座席にすわり、自分の顔が映るバスの車窓を眺めていると、もう思い出してもいいよっていうくらい、一気に父との思い出がよみがえってきた。まるでホッピーによって、ある神経細胞が働き始め、父の記憶への回路が一斉に繋がったみたいに。ああ……そうだった。運動会、肩車してくれたっけ。ぜんそくの発作が始まった時、抱っこして車まで運んでくれたっけ。百貨店のおもちゃ売り場で、欲しかったゲームを買ってくれたっけ。夜市のアーケード、ずっと手をつないでいてくれたっけ。夕陽の公園で……そうだ、あの噴水の水が出ていた頃の公園のベンチから、商店名の入った提灯がポールにたくさん飾られて夜市の開催を告げているのを、父の隣でいつまでも眺めていたっけ。あれはなんで、そんなにいつまでも眺めていたんだろう。そうするしかなかったのかな。ああ、父が、調子が悪くなって休んでいたんだ……。それから数ヶ月後、父の入院先の病室で、急に力いっぱい抱きしめられたっけ……。そうか、そうだったのか。愛情をいっぱいに浴びた記憶は忘れていても決して消えはしないのだと、溢れそうになる涙に必死で抵抗しながらわたしは、よみがえってくるひとつひとつの記憶にそのことを教えられていた。バスが減速して、駅のロータリーに入った。駅舎の入口の前に彼女がすでに来ていて立っていた。一瞬、彼女と目が合った。バスから降りると、彼女は向こうから駆けて来た。
「早かったね」
とわたしは言った。
「一本早く来たの……ねえ、なんで泣いてたの?」
と彼女は言った。
「泣いてなんかないよ」
「泣いてた」
「気のせいだよ」
とわたしはとぼけた。
「そんなにわたしに会うのがうれしかったの?」
と彼女は小首を傾げてそう聞いた。
「蟹、早く食べに行こうよ」
とわたしは歩き出した。
彼女は小走りで来て、わたしの横に並んだ。
横断歩道の信号が赤だったので止まった。
「いつもうれしいから」
とわたしは小声で言った。
「えっ?」
と彼女が聞き返した。
信号が青に変わった。
「じゃ、なんで泣いてたの?」
と彼女が聞いた。
わたしは黙ったまま横断歩道を渡り、街灯が照らす歩道を左へとしばらく歩いていった。彼女は母が入院していた大学病院の看護師だった。母の担当で、病院からの電話はいつも彼女からだった。見舞いに行った時、母は彼女を洗脳しておいたからと、謎の言葉をわたしに残していた。母の死後、二ヶ月ほど経って、病院からわたしの携帯に電話があった。支払いは済んだはずなのにと電話に出たら、彼女からだった。名前を名乗ったあと、彼女は数秒間無言だった。わたしはもう一度、長い間母の世話をしてくれたことに礼を言った。その流れで、食事に誘った。そんなつもりでは、と彼女は最初は断ったが、母に叱られますからと言うと、受けてくれた。