葬儀は地元の葬儀場で執り行われ、叔父の同級生や東京の劇団員が数名集まった。私も慣れないスーツを着てその列に加わった。雨の匂いを含んだ風や蒸すような熱気、参列者のすすり泣く声が会場のまわりを包んでいた。私ははじめて身近な人を亡くしたショックから、その叔父の不在を実感できずに、ただ、親族のなかに紛れて遺影を眺めていた。遺影のなかの叔父は真面目な目と無理に作ったような笑顔が不釣り合いに見えた。
しばらくその遺影に目を向けていると、突然大きな音がわたしのそばで起こった。すぐ近くで嗚咽のような音が聞こえたかと思うと、祖父が大声で泣き出した。その泣き声につられるように母親やほかの親族からもすすり泣く声が起こり、静かな葬儀場は瞬く間に悲しみに包まれた。祖父は顔を真っ赤にして、目からは大粒の涙を流していた。私はその横顔を眺めながら、少しの憤りと、それ以上の悔恨を感じないわけにはいかなかった。私は自分の薄情をよく自覚していた。私も祖父と同じように叔父から離れていった。叔父は父親とよく懐いていた甥から見捨てられて一人東京で暮らしていた。そんな私に叔父の死を悲しむ資格はないに違いなかった。
葬儀が終わって二週間後、東京の叔父の部屋を訪れた私は午前中から遺品の整理をはじめた。親族の代表としてその後の手続きを任せられていた。叔父の部屋は生前のまま、まるで数日間不在にしているだけのように生活感が残っていた。それでも私の実家に下宿していたときと同様、六畳一間の叔父の部屋に家具の類はほとんどなかったので、その日のうちにあらかた片づけることができた。
翌日の午後に不動産屋に部屋を引き渡すまでが私の仕事だった。部屋には古いテレビと冷蔵庫が残されていて、翌朝のリサイクルショップの回収を待っていた。私はがらんとした叔父の部屋で、毛布にくるまって夜を過ごした。晩秋の冷たい風が四隅から入り込むなか、テレビから流れる映像をぼんやり眺めながら夕食を取り、冷蔵庫に残っていたホッピーを勝手に飲んだ。アルコールが飲める年齢になった私はついにこの叔父との思い出の飲み物を手にすることはなく、はじめて口にしたホッピーは苦いホップの味がした。
やがてテレビがすべての放送をやめる時刻になると、私はあらかじめ叔父の遺品から抜いておいたDVDを付属のデッキで再生した。そのDVDの表面には叔父の字が走り書きされていて、再生時間を表しているらしい数字と、一年ほど前、ほとんど話題に上がらないまま上映が終了した映画のタイトルが記されていた。
映画ははじまった途端にそのつまらなさを露呈した。テレビCMか何かでその予告編を目にしたことがあるばかりで、腰を据えて観たことはなかった。よくわからない筋書きと目障りなカット割りは見るに堪えず、何度もリモコンの停止ボタンを押そうかと思いながらその画面を眺めた。私はそのときにはすでにこれが叔父の出演した映画であろうことは薄々わかっていて、せめて叔父がメモのように書き残した数字が示す時間までは画面から目を離すことはなかった。
果たして、叔父の示した時間の少し前からはじまった居酒屋のシーンは何の盛り上がりもないまま不必要に展開され、何度かカメラアングルが変わったかと思えば、主人公らしき女性と連れの男性を四方から映すだけの退屈な映像が続いた。私はその画面に目を凝らしながら叔父の姿を探し、やがてカメラが一旦引いて居酒屋の全体を映した頃、主人公たちのカウンター席の後ろの畳の席で団体客風のエキストラのなかに叔父の横顔を見つけた。叔父は肩のサイズの合わないスーツを着て、愉快に酔っぱらった客を演じていた。ビール会社のポスターが貼られている壁にもたれてグラスを傾けながら、となりの後ろ姿の男性と笑い合っていた。その楽しげな様子はまだ叔父が生きているような錯覚を起こさせた。