「僕も少し飲んでみたいな」
実家から遠く離れた土地で夜を過ごしていることに気が大きくなっていたのだろう、私はそう言って叔父のグラスに手を伸ばした。相手も酔っ払っていたので許してくれると思っていた。しかし、叔父は素早くグラスを自分のほうに寄せると、案外しっかりした口調でそれを制した。
「勘当した息子が可愛い孫にお酒を教えたと知れたら、いよいよ帰れなくなるからね。乾杯は無事に合格してからにしよう。そのときには安い居酒屋に連れてってあげるよ」
叔父は三杯目のホッピーに頬を赤くしながらにやりと笑った。私は少し不服を漏らしながらも、近い未来に叔父と居酒屋で酒を交す自分の姿を思い描いて、その大人の付き合いに淡い期待を膨らませた。
やがて春がやってきて、高校の制服を脱いだ私はなおも実家に暮らしていた。結局、東京の大学に落ちた私は地元の大学に進学した。高校の一駅先にある大学には知り合いも多く、通学中に見える景色にもそれほど変化はなかった。私はほとんど関心の持てない講義を受けながら、大学と実家を往復する日々を送った。第一志望の大学で過ごす華やいだキャンパスライフとは程遠かったけれど、それほど退屈というわけではなかった。週に数回のアルバイトやサークル活動、新しい友人との交遊はそれまでの不自由な高校生活とは異なり、自分の責任だけで多くのことが選択できる生活に満足していた。そのうちにお酒の味も覚えて、アルバイト先の先輩やサークルのメンバーと飲み歩くこともあった。
大学生活に慣れてくるにつれて、叔父との連絡は途切れがちになっていった。大学やアルバイトが忙しく、遠くに暮らす相手にまで気が回らなかったということもある。しかし、本当のところはそうではなかった。私は叔父との約束を叶えることができなかったという負い目から相手を遠ざけていた。安い居酒屋に連れていってもらえなかったこと、これから共有するはずだった叔父との出来事を自分の努力不足で無下にしてしまったことを後悔していた。あるいは叔父は私との約束など忘れていたのかもしれない。それでも、何食わぬ顔で叔父と連絡を取るのは私の小さなプライドが許さなかった。仮にそのプライドを放棄して会ったとして、叔父から慰めの言葉を聞くのも堪え難かった。
叔父は少しずつ重要な役をもらうようになり、主演する公演があるときには連絡がきた。一度、映画への出演依頼も受けたことがあるらしかった。しかし、その喜ばしいメールに返信することはできなかった。叔父の華やかな世界に比べて、私のそれはあまりに平凡なものに違いなかった。私は次第に叔父を自分の世界から切り離していった。
叔父の訃報を受けたのは私が大学二年生の頃のある秋の日だった。大学の講義中に母親から着信が入り、休憩中に掛け直すと慌ただしい口調で叔父が亡くなったことを告げられた。死因はくも膜下出血によるもので、劇団の仲間が部屋のなかで倒れている叔父を発見したときにはもう手遅れだったそうだ。