「私はね、ホッピーが大好きなの。初めて飲んだお酒だし、お店を支えてくれたお酒だわ。でもね、本当の理由は味なのよ。軽くて香ばしくて、やさしいでしょ。そう、ホッピーってやさしいのよ」
そんな三和のため、店を閉めてから一杯のホッピーを作るのは、長年続いた十蔵の日課だった。酒があまり強くないから、ホッピーを多めにしてやると喜んだ。時々、たまには一緒に飲もうよと誘われたが、十蔵は断り続けた。単に照れ臭かったのだ。まさか、交通事故でこの世を去るとは思いもしなかった。あの日三和は客のタバコを買いに出て、それっきり戻らなかった。店のカウンターに、客と飲むつもりだったホッピーを一本残して。まだ五十八歳だった。
誰もが十蔵を心配し、力になろうとしてくれた。だが十蔵は葬式を終えると、すぐに店をたたんでしまった。そして娘家族に相談もせず家を売り、知人を頼って海を渡った。荷物は最低限の衣服と三和が最後に残したホッピーだけ。それきり日本には一度も帰っていない。娘とは時折連絡を取るが、親戚や友人知人は、全て切り捨ててしまった。
十蔵はグラスを手に取り、大きく息を吸ってからホッピーを口に含んだ。とたんに様々な思い出が身体中を駆け巡る。
十蔵の人生には、いつだって三和がいた。惚れていたかと聞かれれば、正直よくわからない。他の女にひかれたこともある。だが三和以外と生きるなど、考えたこともなかった。いないことがどうしても耐えられず、ただひたすらに逃げてきた。マリア・テレジアのように苦しみを受け入れることも、美和のように一歩踏み出すことも出来ないままだ。それでもホッピーは、昔と変わらぬ味で喉を滑り落ちていく。
十蔵は、残りのホッピーを数時間かけて飲んだ。途中から嗚咽が止まらず、何度も中断したためだ。そして何とか飲み干すと、棚の上にホッピーの瓶を二つ並べて飾り、思った。
美和には立派なことを言ったけれど、自分はきっとこの先も、木だけを見る人生を送るだろう。日本に帰ることも、三和のホッピーを開けることも出来ないに違いない。だがそれで良い。これが俺なのだと。
そして、もし美和が本当に自分を訪ねてきたら、その時はこのベタで情けない思い出を聞かせてやってもよいと。
十蔵は二本のホッピーを正面から見つめた。そして消えることのない胸の痛みと温かさにに、少しだけ笑った。