「あんたの決意を祝う気持ちは本当だが、今ここでは飲めそうにない。実は、俺もホッピーには思い出があってな」
「辛い事なの?」
「そういうわけじゃないんだが、簡単には言えない。すまん」
美和は何か言いたげだったが、それ以上問わなかった。代わりに自分の話をポツリポツリとし始める。
「私ね、彼のことを忘れたわけじゃないと思う」
「そうか」
「でも見つめるのはやめて、ただ新しい道を歩こうと決めたの。ねえ、これって『木を見ず森を見る』だよね?」
「そうだ」
「良かった。じゃあきっと正解ね」
「ああ。第一幕が無事終了したんだ。第二幕の始まりは近いぞ」
「なんだかオペラみたい」
「ここは音楽の都だからな」
それから、十蔵と美和は大いに食べた。用意した料理は次々と片付き、気がつけば二人の前にはからの皿がずらりと並んでいた。切り取られた空から見える星の位置も、ずいぶん動いている。すると、美和がゆっくりホッピーの空き瓶をなでた。
「ねえ十蔵さん。私、一人で帰ろうと思うの」
「もうホッピーは飲まないつもりか?」
すると美和は強く首を振った。
「まさか!ホッピーはもう『私のお酒』だわ。ただ、この子にはいっぱい彼の話を聞いてもらったからさ。今連れて帰るわけにはいかないの」
「じゃあ、その瓶はここに置いていけ」
十蔵の言葉に美和が目を丸くした。
「えっ、でも十蔵さん、ホッピーに辛い思い出があるんでしょ?」
「そういうわけじゃないって言ったろ?それにこいつは馴染みだからな、特別だ」
美和は迷っていたが、最後はお願いしますと頭を下げた。そして身をかがめると、ホッピーに視線を合わせた。
「元気でね、ホッピーくん。今日までありがとう。第二幕が始まったら、きっと会いに来るわ。いいでしょ、十蔵さん」
「その時は相手も連れてこいよ」
「うん」
美和はホッピーに向かって、小さな声で「さよなら」とつぶやいた。
タクシーを呼んで美和をホテルへ帰した後、十蔵はひとりで後片付けをした。それから寝室にある金庫を開けて、中から一本の瓶を取り出した。
それは十二年前に日本から一緒に来た、ホッピーだった。
十蔵と妻の三和が東京の五反田に小さな店を出したのは、昭和四十四年のことである。十蔵は二十四歳、三和は二十二歳の春だった。自分たちもお客も貧しく、ビールより値段の安いホッピーの方が人気の時代だ。しかし十蔵はそれが悔しくてならなかった。いつか見ていろ、今に見ていろと、朝から晩までがむしゃらに働いた。
幸い、時は高度経済成長期で、その恩恵は人々にたっぷりと降り注いだ。気づけば客には立派な肩書きがつき、十蔵も我が家と犬と自家用車、そして一人娘に恵まれた。しかし、あれだけ隆盛を誇ったホッピーは注文が減り、十蔵もとんと飲まなくなっていた。それでも店にホッピーを置き続けたのは、ひとえに三和が望んだからだ。
「あなた、私たちの思い出をなくしてしまうつもり?」
三和と十蔵は幼馴染で、夫婦になる前からたくさんの『初めて』を共有してきた。初めての海に初めての映画、そして初めての酒。一本のホッピーを、二人で分け合った日のことを、三和は決して忘れなかった。それ以来ずっとホッピー党を貫き、違う酒をすすめても、決まって首を横に振った。