「私、明日帰ります」
十蔵の、カップに伸ばした右手が止まる。美和は視線を合わせずに続けた。
「そろそろ戻らないと、会社に席がなくなっちゃうから」
何か言葉をと思うのに、喉がピタリと閉じて声が出ない。十蔵はあわてて水を流し込むと、無理矢理に口を開いた。
「確かに、日本人にしちゃ長い休暇だものな」
声が出たことにホッとする。そして、そんな自分にひどく驚いていた。
彼女が帰国することは、ちゃんとわかっているつもりだった。だが、こんな日々が永遠に続くと、いつしか錯覚を起こしていたようだ。胸いっぱいに広がる寂寥感を持て余しながら、十蔵はそんな風に己を分析した。そして、密かに自分の年齢に感謝をした。重ねた年月が、内心の嵐をもらさない壁となってくれている。
だが美和は、気まずさを思い切り顔に出しながら、両足を小さな子供のようにゆらした。
「言うのが遅くなってごめんね。終わっちゃうのが嫌だったの」
「まあ、元気でやるんだな。そして新しい男を作ることだ」
「それでね、十蔵さん。よかったら今夜私と一緒に過ごしてもらえませんか」
「何だ、改まって。別れの晩餐か?」
「あのね、ホッピーを一緒に飲んで欲しいの」
「開けるのか!」
十蔵の大きな声に、店内の客やウェイターが振り返る。しかし美和は気にすることなく、きっぱりと言い切った。
「うん、決めたわ」
その横顔はこれまでとまるで違っており、十蔵はそのまぶしさに思わず目を細めた。この短い旅で、いったい彼女に何が起こったのだろう。一緒にいたのに少しも気づかなかった。だがその変化は、なぜか十蔵にもささやかな開放感をもたらした。まるで自分まで、伸びやかな春風になれたかのようだ。
十蔵はぱんっと膝を打った。
「よし、なら今夜は俺に任せろ。ホッピーの門出を盛大に祝ってやる」
「なんでホッピー?そこは私でしょ」
「夜七時に俺の店へ来てくれ。前に説明したから、場所はわかるよな?」
「覚えてはいるけど、初めて行くからちょっと自信がないかも」
「お得意の電話で調べろ。あと、今日の観光ガイドはお休みだ」
十蔵はそう言うと、さっと席を立った。やることが山ほどできたのだ。そしてせかせかと帽子を頭に乗せながら、腰を浮かした美和に声をかける。
「あんたまで帰る必要ないぞ、ゆっくりしていけ。なんなら昼飯も食っていけ」
「昼飯って、まだ8時じゃん。それにコーヒーがほとんど残っているわよ、十蔵さん」
「そいつにやるよ。俺からの餞別だ」
そう言って十蔵がホッピーを指差すと、美和は笑いながらありがとうと言った。
約束の十五分前に十蔵が店の前へ出ると、すでに美和は来ていた。少し離れた場所でホッピーを抱え、ぼんやりと立っている。十蔵はおうい、と声をかけて手を振った。