そうなるはずだったのに、現実は誰かを傷つける。
店のドアを開けて、黒服に声をかける。彼女がもしいなくても、次の出勤日を聞けばいい。
そして、俺はその日。
彼女が店を辞めたことを知った。
* * *
「今度いい店連れていってやるよ。佐倉さん、呑めるクチ?」
新しい取引先との懇親会。相手方の社長から声をかけられた。
あれから、5年が経っていた。
それだけ時間が経っても、俺は変わらず、平穏で無難な人生を生きている。
「いや、残念ながら弱いんですよ。酒は嫌いじゃないんですが」
変わったことと言えば、酒を断れるようになったことくらいだろうか。
そんな小さなことでも、できるようになると、なぜあの頃、あんなにも何かをした結果を気にしていたのかと思う。
「そうなの? 楽しそうに飲んでるからさあ。それなら旨い魚を出す店にでも行くか」
「いいですね」
社長をタクシーに乗せ、桜並木を駅に向かって歩き始めた。
ミオウは美しい桜と書くと後から知った。
バーテンダーにはなれたのだろうか。後ろめたさからではなく、今は心から彼女の幸せを願えるようになっていた。
通りの隙間から、缶が転がる軽快な音がした。
「何やってんだ」
見ると黒服を着た男が怒鳴った。言いながら、もう1人と転がった缶を拾い始める。
「すみません」
聞き覚えがある女の声に、俺は思わず立ち止まった。
俺の視線を感じたのか、女は俺の方を振り向いた。
5年ぶりの彼女は、俺を責めるでも避けるでもなかった。
「飲んで行かれますか?」
普通の客のように店に誘う。
俺は思わず頷いた。
彼女の考えはわからないが、俺がこのチャンスを逃したくなかった。
「表からどうぞ。……ホッピーのカクテルも作れますが」
彼女のささやかな合図。覚えているというだけの小さな鍵。
「……それは、あなたのこだわり?」
「お酒はおいしく楽しむものでしょう」
彼女はそう言った。
これはスタート。彼女と向き合うための本当の始まりなのだろう。
夜桜の花びらが舞う中、ライトアップされた店の扉が浮かびあがる。
俺は重く開けられなかった扉を、ようやく押した。