すぐ隣にあった古い病院は一年前にすでに解体され移転していた。移転先は新たな町の中心地となった場所だった。百貨店の影になっていつも薄暗かった病院は、現在では周りに遮るものはない広い敷地の中で、いっぱいに太陽を浴びる真新しい近代的な建物に変身し、今では眩しいほど壁一面のガラス窓をキラキラと光らせていた。わたしは移転前のその病院で生まれ、小児ぜんそくだったためによくその病院に連れていかれた。時には学校の校舎の三階から落ちて大怪我をした友人の見舞いに通ったりもした。母が倒れて運ばれた時も急いで駆けつけたのもそこにあった病院だった。だからその病院の辺りの馴染んだ風景がまるで一変していたのが、どうしても寂しかった。ふたつの跡地は空き地のままになっていて、予定地の看板さえもまだどこにも立っていなかった。わたしは時刻表を見たくて近くにあるバス停へいった。そこへよく降り、そこからよく乗ったバス停。本数がだいぶ減っていた。時間をチェックした。そこからは百貨店や病院に隠れて見えなかった建物が、今でははっきりと見えていた。百貨店と病院というふたつの大きな存在が消えて、その裏通りの建物が新しい景色としてあらわになっていた。その通りには小さな事務所や商店が並ぶ中に、一軒ぽつんと飲食店があった。居酒屋だった。そうだ、昔一度だけ、そこに入ったことがある。そのことをわたしは思い出した。そう、土曜日の夜。百貨店へと続くアーケード商店街は恒例の夜市。その帰りだった。父がうまいハムカツがあるから食わせてやると言って連れて行かれたのがそこの居酒屋だった。赤い提灯はあの時もあった。提灯に書いてあるホッピーって何だろうって、小学校の中学年くらいだったわたしはそう思ったものだった。店はこじんまりしていて、確かカウンターと、テーブルが五つくらいの広さだったかな。店に入った時はすでに満席だったが、ちょうど父の知り合いがいて、その人たちのテーブルに混ぜてもらったんだった。父にそっくりな顔をしたわたしは、そのテーブルで質問攻めにあった。電機メーカーのこの町の支店長だった父は仕事帰りによくこの店に寄っていたのだろう。大将と呼ばれる店の主人と親しそうに喋っていた。父はホッピーとオレンジジュースとハムカツ二皿を頼んだ。わたしへの興味も失せた頃、ハムカツが来た。父とわたしの前にそれぞれひと皿ずつ。父はジョッキではなく瓶のホッピーを飲んでいた。わたしはそれはビールなんだろうと子供心に思っていた。なので最近になってようやく男性向けのライフスタイル雑誌を読んでいて、ホッピーがビアテイストの炭酸清涼飲料だということを理解した次第である。揚げたてのハムカツをわたしはほぐほぐと何もつけずに食べた。けっこう厚さのあるハムカツは、わたしの口の中でうまさを爆発させた。笑顔になるわたしを父は微笑んで見ていた。それから数ヶ月後に、父は肺炎により他界した。それ以来、わたしはハムカツを食べたくなくなった。百貨店にも入らなくなった。母は女手ひとつでわたしを育ててくれた。わたしは次第に父のことも思い出さなくなっていた。働きづめの母を見ていたらいつしかそうなっていた。わたしにはこれといった反抗期がなかったように思う。いつも陸上の部活でへとへとだったし、そういったエネルギーは残ってなかったのも理由かもしれない。陸上のおかげでぜんそくは治ったようだった。心配かけたくなかったわたしはがぜん陸上競技に熱中した。獲得したすべてのメダルは、母に捧げた。そのたびに母はすぐに父の遺影に報告していた。その姿がうれしくて、わたしはさらに頑張った。その母も一年前に子宮頸がんで旅立った。母が入院したのは馴染みのその病院ではなく、遠くにある大学病院だった。母が旅立って一年が経ち、わたしは今年で三十歳になった。高校を卒業して、鉄道の保線の仕事をしている会社に入って今では役職も就いた。三つ年下の恋人がいて、来年には結婚する予定だ。バス停から見える連なった赤い提灯が、誘惑していた。日が冬の速度で暮れ始め、赤い提灯の灯りがどこか、土曜日の夜市の開催を何となく思い起こさせた。わたしは無性にハムカツが食べたくなった。飲み物はウーロン茶でいい……いや、ホッピー(単体)を飲もう、そう思った(頼み方は雑誌に書いてあった)。父の記憶とともに、ホッピーもわたしの記憶から完全に消えていた。たぶん視界には入っていたはずなんだけど、わたしにはその文字は最近まで認識できていなかったんだと思う。お酒は飲めるが、自分から進んで飲もうとはしなかった。そういう訳だから、そもそも興味のないお酒関連の情報はこれまで脳がシャットアウトしていたようだった。ホッピーという文字がわたしの目に留まったのは本当につい最近のことで、理容室でたまたま手にしたそのライフスタイル雑誌がまさしくそうだった。店の前に来た。やはり提灯にはホッピーと書いてあった。わたしは静かに戸を開けて、店に入った。