旦那様がまだ勝負もついていないのに勝ち誇った顔で言うと、
「バカなのは旦那様です!」と信じがたいことを八重ちゃんが言った。空気がぴりりと引き締まる。旦那様の背筋がピンと伸びる。つられて清蔵さんと野良猫も背筋が伸びる。
「いやちょっと待ちなさい、亭主に向かってバカとは……」
そこまで言って、旦那様は思わず口ごもってしまった。見れば八重ちゃん、肩を震わせて泣いている。
「清蔵さんのお友達になんてことをするんですか!」
いやちょっと待って、と清蔵さんが止めに入るが、無論猫の言葉など通じるはずもない。
「せっかく遊びにきてくれたのに、ホウキを振り回して追い払おうとするなんて……最低です」
「いや、私はお前の花壇を…」
「旦那様なんて大嫌いです」
八重ちゃんは肩を震わせて、2階に上がっていってしまった。野良猫たちは八重ちゃんの怒気を恐れて逃げていった。庭には顔面蒼白の旦那様と、気まずい清蔵さんが残された。こうして八重ちゃんは天照大神のごとく、天の岩戸ならぬ旦那様の書斎に立てこもることとなったのである。
「まずい、まずいことになったぞ」
旦那様はぶつくさ言いながら、布団が敷きっぱなしの離れをぐるぐる歩きまわっている。八重ちゃんは昨日の晩から、二階の書斎にこもったままだ。何度かなだめすかしたり猫なで声で機嫌をとろうとしてみたが無駄だった。何を言っても「はい」とか「そうですね」とか、抑揚のない返事がかえってくるだけでどうにもとらえようがない。
めずらしいことに、旦那様のそばに清蔵さんが付き従っている。さすがに責任を感じているのかもしれない。猫の目から見ても旦那様の悄気ようが気にかかるらしい。普段は偉そうにしているが、結局この人は八重ちゃんがいなければ何もできないのだ。
「お前は付き合いが浅いから知らないだろうけど、八重のやつはなあ、怒るとほんとに怖いんだよ」
旦那様が恨めしそうに清蔵さんに話しかけている。これもまた珍しいことである。あんたが弱すぎるだけでしょうにと、清蔵さんがにゃあにゃあ言っている。
一方その頃、八重ちゃんも二階の書斎で「どうしよう、どうしよう」と頭を抱えていた。寝ぼけた勢いであんなことを言ってしまった。気がつけば書斎に鍵をかけて閉じこもっていた。目を覚ましたときにはドアの向こうで旦那様が大騒ぎしていた。俺が悪かった、機嫌を直して出てきてくれないか、そうだ、お前の好きな桃を買ってきてやるぞ……云々。
そのときに素知らぬ顔で部屋を出て和解してしまえば良かったのだが、八重ちゃんは八重ちゃんで混乱していたのである。つい生返事でその場をやり過ごしてしまった。旦那様はやがてあきらめて引っ込んでしまったが、階段を下りる足音がなんとも寂しげであった。どうしよう、どうしよう。小さな体がよけいに小さくなっている。
喧嘩両成敗ということで早々に和解すべきなのだが、人の縁というものは一度こじれると思うように戻らないのが世の常である。意識すればするほど、ややこしくからまってしまう。