翌朝は、快晴だった。空気は切るように冷たかったが、市内の路面はきれいに除雪されていてバスも問題なく動いていた。なるべく早く着きたかったので、朝ご飯はおにぎりにしてもらってまだ暗いうちから宿を出た。バスは予定より15分ほど遅れて到着して、あさみを乗せるとすぐに出発した。乗客は10人ほどだったが、程なくしてあさみひとりだけになった。
山道をくねくねとしばらく進むと、唐突に湖面が目の前に現れた。積もった雪を湖面に映しているので、辺りは一面真っ白な上、波もないのでまるで静止画を見ているようだった。人を拒絶するようなその冷たさは、あさみに真っ先にえりかを思い出させた。
バスは湖畔の幾つかの停車場を通り過ぎて、幾分建物のある場所に停車した。あさみはそこでバスを降りた。ディーゼルエンジンから排出される黒い排ガスと白い蒸気が混じり合って空気に溶け、かすかに酸っぱい匂いがした。
右手には道路を隔てて3階建てほどのホテルらしき建物があり、その手前にはシャッターを閉じた土産物屋があった。どの建物も森の木々に埋もれるように建っていて、さらに雪に覆われて人の気がなかった。左手は静寂に包まれた湖面が広がっていて、砂利の浜がわずかに雪の合間から見えた。湖の間近にまで近付くのは難しそうだった。
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「もう、限界かもしれない」
もう一度そう言うと、えりかは涙を拭ってあさみの顔を真正面から見た。そして、15歳からずっとえりかの支援をしているパトロンの話を始めた。建設会社の会長を務めるその男の話は、あさみには聞くのも耐えられないような話ばかりだった。
「あさみはまだいいよ。やり直しがきくから」
えりかがそう言った意味を、あさみはこの時初めて理解した。えりかはもう後戻りのできない道にすでに入り込みすぎていた。それは、えりかの絵画の美の裏側にぴったりと張り付いた醜であり、人間の貴さと不即不離にある欲望なのだろう。
「日本で1番深い湖の事、もう一度教えて」
えりかは最後に微笑んでそう言った。
あさみは田沢湖と辰子の物語を語る語り部のお婆さんの話をした。
半年前の話しだ。
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