小説

『花子さんがいた頃』いずさや(『トイレの花子さん』)

「私が掃除する前に綺麗になっていたときは、桂木さんがやってくれていたんだね」
「習慣なんです。トイレって、逃げ場じゃないですか。誰にも邪魔されない。だから、そこがピカピカなの方が、心が楽っていうか。綺麗な場所であって欲しいと思うので」
そうか、彼女も逃げ場を必要としていた人なんだと思った。
「桂木さんは、そういうのが必要ない人なんだと思ってた。何でも出来る桂木さんが、羨ましくて。どんな人でも、落ち込む時間と、守られる場所が必要なのにね」
 桂木さんの目が、一層潤んだ。
「私、いつもちゃんとしていたいんです。気が付く人だと思われていたいし、しっかり者だと思われていたいし、話しやすい人だと思われていたいんです。そうじゃなきゃ……」
 桂木さんは、唇を震わせて、ぽろぽろと涙をこぼしはじめた。
「そうじゃなきゃ、不安なんです。一所懸命やるけど、でも時々、間違えちゃう。それがどうしてなのか、分からないの」
 私は、しゃがみ込んでしまった桂木さんに歩み寄ったものの、どうしていいか分からずに、隣にしゃがみ込んで肩をさすった。
十分過ぎるほどに優秀に見える桂木さんが、心のうちに何を抱えているのか、どんな生き方をしてきて、何に傷ついてきたのか、想像もつかない。 
でも、私を含めた周囲の人が勝手に思い込んでいるほど、彼女は完璧じゃない。
独りぼっちの子供みたいに泣き続ける桂木さんにかける言葉も見つからなくて、彼女の肩を抱き寄せた。わぁわぁ泣く桂木さんメイクが溶けて、私のシャツの胸元が黒く濡れていった。
私は今まで、自分との対話に沢山の時間を割いてきたけれど、外の世界、つまり、他人というものを全然見ないまま生きてきたのだな、と思った。
自分の世界にこもるという生き方は、私には必要なものだったけれど、外の世界と対話するべき時なのかもしれない。きっと、タイミングとはそんなものなんだ。
ーー話し相手はもう、私だけじゃないよ。
 ふと頭に浮かんだ言葉は、私が考えたことなのか、外から入ってきたものなのか。
「桂木さんは、『花子さん』の話、知ってる?」
 鼻をグズグズいわせながら顔を上げた桂木さんは、「へ?」と気の抜けた声を出して、「トイレにいるときに、トイレの怪談なんてやめて下さいよ」と笑った。

1 2 3 4 5