小説

『黒い果実』裏木戸夕暮(『初恋(島崎藤村)』)

 油絵にあんなにも集中したのはあの夏が初めてだった。
 手元にスケッチも何も無い。残っているのは一瞬射抜いたあの目。
 記憶の中の藤村を何度も描き直した。油断や妥協をすると「違う」とキャンバスに静電気が走った。描き終えた時には身も心も絞り尽くされていた。
 スケッチの藤村は窓を額縁にして横向きに座っていたが、油絵で仕上げた藤村は真正面から僕と対峙する。目尻から左右に静電気を放ちながら、真っ直ぐに僕を射抜く。
 その時初めて気づいた。
 藤村の静電気が悲鳴を上げて泣いていることに。

 しかし藤村に問いただすことも、描きあげた油絵を見せることも出来なかった。
 二学期、藤村は転校していた。

 転校した事情は分からないし、顧問の先生も教えてはくれなかった。連絡先も知らない。調べようともしなかった。
 油絵が一枚。それが僕に残された、藤村の全て。

 高校と大学を卒業した俺は出版社に就職した。中途半端に頭が良くて小器用な俺は、そこそこ使える男として社内の立場も安定して三十代半ば。結婚はしていない。何人か付き合ったが続かなかった。
「私じゃなくても誰でも良かったんじゃない?」
「あなたって全然私のこと見てないのね」
 大抵はこんな言葉で振られる。その度に静電気を放つ少女を思い出した。

 そんな状態で、思い掛けず藤村と再会した。
「イラストを描いてる鴇田です」
 トキタ。珍しい苗字だなと名刺を凝視していると、
「・・・あの、○○高校の櫛名先輩じゃないですか?」
 顔を上げると女が長い髪を掻き上げながら笑っている。
「藤村です、美術部の」
「ああ!」

 彼女は仕事仲間から俺の名前を聞いて、珍しい苗字だしもしかしたらと思ったらしい。藤村は転校先の高校を卒業後すぐ就職した。色々あって今は非正規で働いてるが、絵の世界を諦め切れず細々とイラストを描いているという。
「だから先輩ぃ、何かお仕事あったら下さいね」
 媚を売る女は俺が知っている藤村じゃなかった。捨てられずに持っている油絵が押し入れで腐っていく気がした。
 仲介した仕事仲間と元藤村と俺は飲みに行き、高校時代の思い出話を料理の突き出し程度にして、藤村は自分の売り込みに必死だった。タブレットで自分のアーカイブを開いて見せてくれたが、あの毒々しい林檎の迫力は何処にもなかった。
 男子トイレで一緒になった仕事仲間が酔った勢いで俺に勧めた。
「美人じゃん。誘っちゃえば?」

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