小説

『おとななまはげ』新田塚 道雄(『なまはげ(秋田民話)』)

「あのなぁ、おとななまはげさぁん。私はどこにでもいる中年サラリーマン。それもかなりくたびれた男です。会社で、家庭で散々な辛苦を味わってきたものです」
 ここで、私は意識して語調を重々しく変えてみた。
「聞けい、おとななまはげよ。ほらほら、返事をせんか。私は人々が生活の中で行ってしまう僅かな過ちしか犯していない。それは些細なことばかりだ。これは苦笑して見逃してやるのが人の思いやりというものではないだろうか。聞け、おとななまはげよ。真直ぐにこっち向いて聞けい! お前が聞いて損は無い話をこれから言うぞ! あのさぁ、前の主人が素晴らしいお方だったのはよくわかる。心から同情もする。しかしな、人を許すことも時には正しいことだということを知らないのか。お前のご主人はそこのところをお前に教える前に死んだのだよ。さあ、よく考えてみるがよい。あ、そうそう! 聖書。バイブル。あれを一読されると私の言葉が嘘では無いことが理解出来ると思うよ!」
 ここでバスルームの外の物音が止まった。どうやらおとななまはげは考え込んでいるらしい。自分の存在意義を問われたのは生まれて初めてに違いない。しめた。これがおとななまはげの弱点だ! そのときおとななまはげが大声で怒鳴りだした。
「馬鹿者! 田嶋康夫。貴様はもっともらしいことを言ってその本心は相手を騙して自分だけが助かろうという寂しい魂胆の持ち主であることを暴露した! 5個プラスワンの罪だ! 全部知っているぞ! おとななまはげには全部お見通しなんだ!」
 駄目か。確かにおとななまはげは全部お見通しだった。 
私の心の中は自分が歩んできた40年近い思い出で満たされた。
 そのとき、脱衣場からおとななまはげのひいっーという悲鳴が聞こえた。
 おとななまはげの絶叫は、長い時間バスルームの壁に反響して消えていった。
 そして、そして辺りは静かになった。じっとしていると、また子供たちが笑いながらバスルームを覗き込んできた。
「お父さん! お父さん! おとななまはげが怖かったんだろ? だからこんなところに隠れていたんだろ。だったら、もう出てきても大丈夫だよ。ここにいたおとななまはげはもういない。ボクが退治してあげたよ」
 ええっとなってバスルームを出ると何もいない。
「どうしたんだ、これは」
「お父さん、元々何もいやしなかったんだよ。お父さんが大声を出すものだから脱衣場を覗いたら、誰もいなかった。たぶん、おとななまはげって、大人の心の中だけに出てくる仕掛けなんだ。不思議だね」
 そうか。おとななまはげは心の中に現れる怪物だったのか。実体は無かったんだ。子供の目が真実を見極めたんだ。
 そのとき、私は紀子の浮気の事実を思い出した。私も真実を見極めなければ! おのれ紀子。私は義憤にかられておとななまはげのように2階への階段を駆け上がっていった。紀子の体力に勝てる自信はまったく無かったが、決着はつけねばならないのだ。

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