小説

『鏡よ鏡』平大典(『白雪姫』)

「加賀見くん」工学部に所属する同級生の猪狩は俺が手にしていたスマートフォンを指差す。「そんな派手なケースだったっけ?」
 昼食時の大学食堂は、学生で混み合って活気がある。俺たちは人ごみを避け、日のあたりが悪い窓際の席に座っていた。
「いや、俺のじゃない。二限の授業が終わった後、講義室で拾ったんだ」
 俺は経済学部に所属している。件のスマホは、午前中の『経済史概論』の授業の終わりに、床に落ちていたものを拾った。真っ白に赤のハートが付いている女の子趣味のケースには見覚えがあった。
「誰の?」
「白雪さん」
「やったじゃないの、加賀見くん」猪狩は刈り上げた頭を撫でる。「いいよな、文系は。うちのようなホモソーシャル丸出しの脂っこい学部と違って、そういう幸運な偶然がある」
 猪狩の指摘通りだ。
 白雪さんは、法学部に所属しており、我が学年で最も人気のある女の子だ。判明しているだけでも、入学からの一年間で三〇人近くの男子が告白して玉砕している。
 その携帯電話を拾う、もしかしたら会話できるかも、なんてのは、俺のような最底辺系男子にはありえない機会だ。
「まあ、次の講義も一緒だから、そのとき返す」
「おいおい、エロいこと考えてんじゃねえよ」
「失礼だ。だって、大学の事務局に提出するのも手間だろう。誰のものかをわかっているなら」
「そりゃそうだけど」猪狩は食べ終わった定食の皿を脇にどけ、リュックサックからノートパソコンやケーブルを取り出す。「ありえねえなぁ」
 猪狩は工学部の先輩たちと一緒に『七人のコビト』という携帯アプリ開発の学生ベンチャーを立ち上げ、ソフトウェア開発を担当している。授業の合間に仕事をするようで、昼休みでも忙しそうだ。
 ちょうど尿意を催した俺は席を立つ。「ちょっとこのケータイを見ておいてくれ」
「あいよー」気のない返事をした猪狩は、既に画面に没頭している。


「なんだよ」席に戻ると、スマホがない。
「あー、ちょっとね」よく見れば、猪狩がパソコンにケーブルで接続している。「中身を改めちゃった」
「なにしてんだ! お前、バカ!」
「暗証番号なんざ楽勝だね」猪狩は薄気味悪い笑い声を発する。「しかしだ、麗しき白雪女史も恋愛で悩んでいるのだね」
「なにを」
「アプリ一覧を見ていたら、白雪女史、我が社の恋愛相談アプリ『魔法の鏡』をダウンロードしておったんだね、これが」
『魔法の鏡』は『七人のコビト』が開発したスマートフォン用の恋愛相談アプリだ。チャット形式で、大学の研究室が独自開発したAIに回答させるという仕組みだ。大学生の恋愛体験、相談から小説、漫画などをラーニングさせ、適切なアドバイスをするというのだ。大学生向けとターゲットを絞ったのが功を奏したのか、一躍都内の大学生の間で大ヒットしている。
 白雪さんがダウンロードしていても、不思議はないが。

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