小説

『Mirror』小林央(『桃太郎』)

「それじゃあ、行ってくるよ」
それは、いつもと変わらない朝の風景。
仕事へ向かう旦那。
足に絡みつく幼い息子と一緒にその姿を見送るのが、私の日課だ。
「ほら、パパにいってきますのちゅーしてあげたら?」
「ぱぱのほっぺ、じょりじょりしてるからいやー」
「そっかあ、嫌かあ」
困ったように笑いながら、彼が息子の頭を撫でる。
少し前までいってきますのキスは息子の仕事だったのに、最近はそれを嫌がるようになってきた。
「パパね、お仕事大変なんだって。パパがお仕事頑張れるように、ちゅーしてあげよ?」
「もー、ぱぱったらしょーがないなあ」
「それじゃあ、お願いします」
しゃがみ込んだ彼の頬に、少し背伸びをして息子がキスをする。
「ぱぱ、げんきでた?」
「ああ、すっごく元気出た」
「がんばれる?」
「うん、すっごく頑張れる。ありがとな」
その光景の眩しさに、ふいに目頭の奥が熱くなる。
けれど今は、こんな姿を見せる訳にはいかなかった。
二人に見つかる前に指先でそっと涙を拭う。
今日この瞬間だけは笑顔でいようと、昨晩心に誓ったばかりなのだから。
もう一度息子の頭を撫で、彼がよいしょと立ち上がる。
「そろそろ行かないと」
「うん……」
視線がぶつかり、見つめ合った彼がふっと笑みをこぼす。
そのどこか憂いを帯びた瞳に、私は精一杯の笑顔を顔に張り付けて口角をあげた。
「いってらっしゃい。……気を付けてね」
「ああ、いってきます」
いつもと同じように軽く手を上げて、彼がドアに手をかける。
ドアの隙間から覗いた灰色の雲がやけに重々しく感じる。
すると、足を踏み出した彼がこちらを振り返った。
ほんの一瞬絡み合った視線が、まるで永遠のように感じられる。
『行かないで』
口の端から出かかった言葉をぐっと飲み込むと、彼が困ったように笑みをこぼした。
「じゃあ」
その姿が、鉛色の風景の中に飲み込まれて消えて行く。

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