小説

『砂利道』広瀬厚氏(『トロッコ』)

 何年ぐらい前になる? 半世紀近く前になる。朧げ幽かである。色は有るのか? ああ有る。が、古いネガカラープリントのような鮮明さに欠けた余所余所しい色だ。自然切ない。君だよね? ああ僕だ。多分。多分? ああ多分。そう、他人事のようでもある。夢のようでもある。夢かもしれない。夢でなくとも夢と然程変わらぬ。其処から確実に常に遠ざかって行く。時が過ぎる。現今刹那として過去となる………

 良平は、磨りガラスがはまった木製格子戸の、借家玄関を引いて外に出た。晴れている。白い雲が蒼穹にぽかりぽかりと浮かんでいる。寒くもない暑くもない。季節は冬でない夏でない、そう、確か秋、そうだ秋、秋だ。
 南向きの玄関の直ぐ前は未舗装の砂利道だ。細い砂利道を挟んで、玄関の向こうには畑がある。畝に大根の葉が青く茂っている。
 良平は、まだ幼稚園にも通わぬ幼子であった。日常坐臥する借家から半径五百メートル圏内ほどの世界が、彼にとっての全てと言っても過言でなかった。それは彼にとって、十分に広い世界であった。胸の中の世界もそれはそれで、今よりずっと広々としていた。眼前の世界も、心中の世界も、いきいきと輝いていた。曖昧模糊に薄れた色彩が一瞬間、方今方寸鮮明に蘇る。と、すぐまたぼやける。
 彼は砂利道を東へと歩いた。ずんずんと歩いた。両脇に民家がある。田畑がある。雑草にうまる空き地が点々とある。
 薄いズックの底を通って、足の裏へ砂利の凸凹が伝わる。時折転がっている小石をズックの先で蹴っ飛ばす。飛んだ小石が向こうで遊ぶガキ大将たちに届いた。良平よりかちょいとばかし年上の、はなたれ小僧達だ。はなたれ連は、すっ飛んで来て、彼の周りを取り囲む。両の鼻の穴から黄いない鼻汁を垂らかした、十円ハゲが彼の前に出た。
「おいお前、石ころ蹴飛ばしやがって俺達に喧嘩うってんのか」と、いちゃもんつける。鬱陶しいから、
「ちがうよ、ごめんね」と、良平は軽く頭を下げて謝った。すると連中調子に乗って、
「このヘナチョコ野郎め泣かされたいか」と、寄ってたかって彼をからかう。
 両腕を胸の前に組んで一人黙っていた小太りの大将が、どんと右手のひらで良平の左肩を突いた。よろけて良平は後ろに倒れた。泣くぞ泣くぞと、はなたれ達は倒れた彼を笑って、声を上げはしゃぐ。
 虎刈り頭でひょろひょろのもやし野郎が、地べたに尻をつく良平に向かって、ぺっと唾を吐いた。彼はよけたが、唾は左頬をかすめた。俄然頭に血を登らせた彼は、転がる石を手に摑み、もやし目掛けて投げつけた。投げた石は見事もやしのでこに当たった。ぱっくり割れたもやしのでこから、血がたらりと流れた。己の身に起こった出来事を解せずにいた、もやしであるが、俄か身の異変を悟り、でこの傷口へと右手指先をやった。己の右手指先をぬらり穢した、でこから流れる鮮血を、両の目で受け取った途端、痛みより先に驚きから、もやしは、わあーっと大きな声を出して泣いた。次にやっと、もやしは傷口の痛みを覚え、痛いよ痛いよと泣き叫んだ。

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