小説

『8月の部屋』日根野通(『2月の部屋』)

 蓼科の手に触れたのは、姉ではなく一輪の花だった。気がつけば蓼科は奥の間の座敷に佇んでいた。目の前にはちゃぶ台とその上に飾られた一輪の赤いヒガンバナ咲いている。
 強い匂いに鼻腔が刺激される。
 ヒガンバナはこんな匂いがしたのだろうか。
 私は一体何を見たのか。冷静に今の現象を分析してみる。花が幻覚を見せていたのか。いや、花の醸し出す匂いが幻覚を見せた、と考える方が自然かもしれない。女は趣向を凝らした部屋と言っていた。何か仕掛けがあるのか。
 その時点で蓼科の心には他の部屋も見てみたいという気持ちが生まれていた。
 10月の部屋に入る。するとまた同じような座敷があり、襖があった。蓼科は襖を開けた。

 夜だった。月明りも星明りもない暗い空を背に黄色いキンモクセイが森のように立ち並んでいた。音もなく次々とキンモクセイの花が地面に落ち、暗い大地を黄色に変えて行く。
 その姿はまるで降り積もる雪のようだった。キンモクセイの香りが強いことくらいは男の蓼科でも知っている。強すぎる匂いは思考を奪うものだと思いながら、キンモクセイの海に足を進める。
 木と木の間に白い何かが見えた。蓼科はそれを追いかける。白い何かは逃げる。距離を詰めて、白い袖から覘く白い手を掴もうとしたその時、キンモクセイが一層強く香った。そして雪どころか滝のようなキンモクセイの花が落ちてきて、蓼科は視界を遮られた。
 蓼科は一瞬で元の部屋に戻されたかのように、ちゃぶ台の上で香っているキンモクセイの前に佇んでいた。
 あれは幻なのだろうか。ほんの少し手が触れたような気がした。冷たかったが確かに人の手の感触だったと思う。幻ならば良くできたものだ。
 蓼科は11月、12月、1月、2月と襖を開ける。薄い水色の空に映える土手沿いに咲くコスモス、見知らぬ民家の家の庭に植えられたカトレア、小さな社を守るように咲く椿。山間の蝋梅。その都度蓼科は目の端に白い金魚の柄の袖を見る。その度に捕まえようとしては現実に戻される。
 しかしながら段々と違和感を持つ自分に気がつく。姉の顔を見たのは9月の部屋だけだ。
 その後はただあの浴衣が見えるだけだった。狐に化かされているのでは、と思わなくない。このまま進んで良いのだろうか、とも思う。襖を開ける度に、姉を逃がす度にあの女の用意した罠にのめり込んでいるような気がする。現に今まで衣笠の事を忘れつつあった。彼を探すためにここに来たはずなのに。

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