小説

『心霊写真、以前』原田修明
(inspired by 小説『もらい泣き』)

 砂時計のように、あたしがこぼれ落ちていく。
「あなた」
 声は、出なかった。

 いきなり、明るくなった。わっと音が流れこむ。懐かしい匂いが鼻をくすぐる。焼き魚、芋焼酎、煙草。
 意味も取れないほど混濁した声が、あたしを包んでいる。それは、とても楽しそうな合奏だった。
 あたしは満席の居酒屋に、ぽつりと立っていた。
 眼の前のテーブルを、十人ほどが囲んでいる。最後に見たのはいつだったのかも思い出せない、見慣れた背中があった。
 夫だった。
 直也君もいる。見覚えのある出版社のひとたちに囲まれて、美味しそうにジョッキを傾けていた。主役は彼のようだ。
 そっと近づく。話に夢中で、誰もあたしに気づかない。
「直也、とうとうファースト写真集だな」
「オレが脱いだ訳じゃないっすよ」
 喧騒よりも大きな笑いが起こる。直也君の仕事は順調みたいだった。
 机の上には、好物のつくね串が手つかずで残っている。久しぶりに食べたいと思ったけれど、お腹はすいていなかった。ビールぐらいは構わないだろう。
「すいません」
 店員の女の子に声をかけたけれど、騒がしいせいかこちらを向いてくれなかった。
「よし、新進気鋭のカメラマンに一枚撮ってもらうかな。みんな、こっちに集合してくれ」
 椅子にも座らないうちに、飲んでいたひとたちが周りに集まってくる。あたしは素早く夫の隣に滑りこんだ。直也君が、酔いで顔をほんのりと染めつつ、確かな手つきでカメラを構える。
「撮りますよ」
 闘病中、ずっと握っていてくれた右手を、すっと夫の手に寄り添わせる。あたしがずっと受け取ってきたものを、少しでも返したくて、手を重ねる。
 気づいているくせに、見ないふりをしている。いつものことだった。
「裂ける、チーズ」
 直也君の、あまりにバカな合図に吹き出してしまう。同時に、フラッシュが焚かれた。きっと変な顔だ。

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