小説

『Ignite』木村浪漫
(inspired by小説『マルドゥック・ヴェロシティ』)

 セルゲイ・ブリズギナのアパルトメントの一室。おれの前でセルゲイは書き物をしている。このご時勢になんと手書きだ。ふと手を止め、息を吐く。「終わったよ」
 おれはセルゲイから原稿──九年前の事故のドキュメンタリーを受け取る。それは、被害者の一人一人と向き合い、彼らの日常がもう一度戻ってくる様子を、誰かを責めるでもなく、ただ事実のみを文章と写真だけで進められたものだった。ドキュメンタリーの末尾はこう結ばれている──生涯を掛けて追いかける意義があった。私はただ、あの日の地獄を蘇らせたかっただけなんだ、と。
 「それと、これは本には載せるつもりはなかったのだが、あんたには、渡しておこうと思ってな」
 そこには、九年前の真実が推測を交えながら記されている。ささやかな悪戯心から、アラタ少年はシグナルを青に変えようと、交差点の信号機に干渉した。その電磁波をリモートコントロールが拾い、青信号だと勘違いした乗用車が一斉に発進した。さらに、パニックを起こしたドライバーの思考もリモートコントロールがフィードバックしたため、ここまでの暴走を引き起こした。
 アラタが未成年者であったことや、この小さな英雄が既に被害者たちの心の支えとなっていたことから、この事実は伏せるべきだ、とセルゲイは考えたようだ。
 「私はこれ以上誰かを被害者にしたくなくて、この事実に蓋を閉めた。もし、正しく裁かれなかったことが、彼の良心に傷をつけてしまったのならば、今もまだ、あの少年は炎の中で焼かれ続けているんだろう」
 「おれたちが必ず正しい裁きを与えてやるさ」
 セルゲイは何故か悲しそうな顔になった──この街で?
 「あんたたちに彼が救えるのか」
 ──それの答えを、おれは持ち合わせていなかった。

 
 フラッシュガン交差点、十年前の慰霊碑。アーネストはそこに花を捧げた。十年経った今も、月命日にはここに来るのだと言う。
 「この事故は、僕の中でまだ、終わってなんかいないんですよ。あの歌が、今も僕を責めるんです。暗闇に火を点けろ、夜に火を灯せ──どうして嘘をついたんだ、どうして本当のことを言わなかったんだ、って」
 「逮捕礼状が出ている。おそらくは十年前の事故の再捜査も行われるはずだ」
 「僕は、ただ、僕の日常を壊されたくなかっただけなんだ。友人とのなんでもない会話や、学校に行って、会社に勤めて。この街に生きて、社会に参加すること。そんな当たり前のことが、何よりも大切だったんです」
 アーネストの表情がめまぐるしく変化する/苦悩・憤怒・穏やかな微笑。

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